長崎県長崎市 晧臺寺/高島秋帆墓所

晧臺寺の墓域のかなり上の方に、
町年寄高島家の墓所があります。
この高島家は高島流砲術の創始者で、
幕府より重用された高島秋帆を排出。
高島家は後に断絶となりますが、
墓も門人により建立されています。
高島家の先祖は近江国高島郡出身で、
近江源氏佐々木氏の末裔であったとされ、
出身地より高島姓を名乗ったという。


町年寄高島家墓所」。
高島家は大村町(現万才町)の町年寄の家柄。
初代高島氏春が天正2年(1574)に長崎に移住し、
次代高島茂春頭人(後の町年寄)に任命され、
以降の当主の多くは高島四郎兵衛と称して、
町年寄を代々務めました。
その財力は10万石の大名に匹敵したという。


皎月院殿碧水秋帆居士
 苔道院殿閑室禅香大姉
 賢徳院殿源武晴城居士
 常賢院殿小嶼道通居士
(中央)」、
贈正四位高島茂敦之墓(右手前)」。
11代当主高島茂敦(秋帆)と妻加宇女
高島茂武高島茂巽の合葬墓と、
高島茂敦の改修墓。
中央の合葬墓は門人が建立したもので、
発起人は大木忠貞野口正道福田治道宜
尾上春房上原寛林近藤慶智荒木宗彜
改修墓は軍人県人会史家らによるもの。
秋帆は10代当主高島四郎兵衛茂起の三男で、
文化11年(1814)に家督を相続しており、
長崎会所調役頭取を勤めました。
出島オランダ人より洋式砲術を学び、
独自で発展させて高島流砲術を創設。
やがて佐賀藩家老鍋島茂義も入門する等、
秋帆の洋式砲術は徐々に評判となります。
アヘン戦争清国英国に敗れると、
幕府に砲術改革を訴える「天保上書」を提出。
天保12年(1841)に武蔵国徳丸ヶ原にて、
洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行い、
これが幕府に評価されるに至り、
江川英龍下曽根信敦等に洋式砲術を伝授。
更に彼らが門人へと伝える事で、
高島流砲術は大きく広まりました。
しかし鳥居耀蔵ら快く思わぬ者らの讒訴で、
天保13年(1842)に長崎奉行所に捕縛され、
取り調べの後に岡部藩に預けられて幽閉。
岡部藩は秋帆を客分扱いで接し、
秋帆は同藩士らに砲術を伝授しており、
更に諸藩士も教えを請いに訪れています。
嘉永6年に門人らの努力により放免され、
幕府に「嘉永上書」を提出。
講武所教授方頭取等に任命され、
その後は砲術訓練の指導を尽力し、
慶応2年に死去しました。
茂武は秋帆の長男で父に従い砲術を学び、
高島流砲術の師範として活躍しますが、
元治元年に父に先立ち死去。
茂巽は茂武の長男で英語を学び、
語学所英語教授を務めていましたが、
文久2年に19歳で早逝しています。

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