宮崎県延岡市 台雲寺/内藤政挙墓所

台雲寺は延岡市北小路にある曹洞宗寺院。
養老3年(719)に笑領和尚金仙寺が創建し、
天正15年(1578)に領主高橋元種が、
※懸は延岡の旧地名。
萩(延岡市萩町)に移して西林寺と改め、
自らの菩提寺と定めました。
元種の改易後は衰退していましたが、
元和2年(1616)に有馬直純が現在地に再興。
台雲寺と改めさせて有馬家の菩提寺とし、
寺領100石を寄進しています。
有馬家の転封後に入封した牧野家も、
寺領50石を寄進。
牧野家の後に入った内藤家からは、
特別な支援を受けていたようで、
末寺50ヶ寺を持つ大寺院となっており、
最後の藩主内藤政挙の墓所にもなりました。


本堂」。
昭和48年再建の白い本堂
本堂内には16枚の羅漢の絵が掲げられており、
これは延岡商人小田清兵衛小田理兵衛が、
天明6年(1786)に奉納したものとのこと。

本堂左側に内藤家の墓所があります。

内藤家墓所」。
歴代の墓所は三福寺にありましたが、
明治42年に延岡城に改葬されており、
その関係からか政挙の墓所となった模様。
門は閉ざされてはいますが、
塀は低く門も格子で内部は確認出来ます。


従二位子爵内藤政擧之墓」。
延岡藩8代藩主内藤政挙の墓。
政挙は掛川藩9代太田資始の六男で、
7代内藤政義の養子となり、
文久2年に政義が隠居した為に、
家督を継いで最後の藩主となっています。
内藤家は徳川譜代の家柄だった為、
終始佐幕的な行動を取っており、
鳥羽伏見の戦いでも大坂警備を担当。
新政府より朝敵に認定されましたが、
これは弁明や薩摩藩等の周旋により、
僅かな謹慎処分で済まされました。
廃藩置県後は一時慶應義塾に学びますが、
眼病を理由に退学。
宮中勤番宮中祗候を務めた後、
明治23年に延岡に戻って定住し、
銅山経営で大きな資産を得ています。
慈善事業教育振興を積極的に行い、
更には電力事業築港等で、
現在の延岡市の経済基盤を築きました。
明治2年、死去。


内藤政敏之墓」。
政挙の長男内藤政敏の墓。
彼の経歴については不明ですが、
家督は継いでいないようですので、
父に先立って死去したのでしょう。

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