高野山奥の院墓地/武田信玄墓所

奥の院墓地にある武田信玄の墓所。
信玄は言わずも知れた戦国大名で、
甲斐の虎」と称された最強の武将のひとり。


恵林寺殿(左)」、
法泉寺殿(右)」。
武田信玄及び武田勝頼の墓。
この供養塔は江戸期に建立されていますが、
施主建立時期は判っていません。
信玄は甲斐武田家18代武田信虎の次男で、
父信虎は甲斐国の統一成し遂げますが、
家臣らは疲弊して不満を持っており、
聡明な継嗣晴信(信玄)への早期継承を望み、
信虎を駿河に追放して家督を相続しています。
当主となった信玄は信濃へ進攻し、
勢力を伸ばして版図を拡大。
越後の上杉謙信川中島で激突しつつ、
各地で支配地域を広げました。
元亀3年(1572)に将軍足利義昭の求めに応じ、
織田信長討伐の為に軍勢を率いて出陣。
途中で徳川家康を撃破していますが、
進軍中に病に倒れて死去しています。
信玄の死は遺言で3年間秘匿されて、
その間に勝頼が家督を継いで体制を固め、
織田・徳川連合軍長篠で激突。
多くの将兵が討死する大敗北を喫してしまい、
支配地域を大きく減少させました。
敗戦後は上杉家北条家との関係を強化し、
織田・徳川勢の進攻に備えましたが、
その勢いを止める事は出来ず、
天目山の戦いの後に妻子らと共に自刃。
甲斐武田家の嫡流は滅亡しました。
江戸時代には信玄の玄孫武田信興が、
武田家を再興して高家となっており、
信玄の七男武田信清は上杉家家臣となり、
米沢武田家として続いています。
奥の院の墓所はこれら子孫の建立が、
遺臣による建立と考えられます。

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