長州藩家臣団の軍隊

長州藩奇兵隊等の諸隊が知られますが、
諸隊だけが長州藩兵ではありません。

内訌戦正義派が勝利し抗幕体制が成立すると、
来たるべき戦いに備えて軍政改革が行われます。
諸隊は改めて整備され、規則や定員、
それぞれの駐屯地が決められ、
藩が統括する正式な軍隊となりました。

これに加えて従来の封建家臣団の軍事組織も、
軍制改革に則って編成されることになります。
1000石以上の知行を持つ家臣団は、
その家臣(陪臣)らを大隊単位に再編しました。
その数は15大隊

一門の宍戸家右田吉敷厚狭阿川
大野各毛利家
そして家名断絶となった益田福原両家は、
※当時はそれぞれ御神本鈴尾と名乗った。
1~1.5大隊(200名前後?)を派遣し、
堅田家高田家等の大身寄組も半大隊。
※当時、国司家は高田家を名乗っています。
その他寄組各家もそれぞれの知行に応じ、
1~3小隊派遣しています。下記がその編成。

南第一大隊  宍戸家(一門筆頭)
南第二大隊  大野毛利家(一門)
南第三大隊  清水美作(寄組)
       浦滋之助(寄組)
       井原主計(寄組)
南第四大隊  佐世仁蔵(寄組)
       村上亀之助(船手組)
       村上河内(船手組)
南第五大隊  右田毛利家(一門)
       堅田健助(寄組筆頭)
南第六大隊  右田毛利家(一門)
南第七大隊  吉敷毛利家(一門)
南第八大隊  粟屋帯刀(寄組)
       梨羽筑後(寄組)
       国司主税(寄組)
       宍戸備中(寄組)
南第九大隊  益田孫槌(寄組)
       児玉若狭(寄組)
       内藤常陸(寄組)
       赤川蔵人(寄組)
       佐々木式部(寄組)
       内藤真伍(寄組)
南第十大隊  鈴尾駒之助(準一門)※福原家
南第十一大隊 厚狭毛利家(一門)
       桂武之助(寄組)
       宍戸丹後(寄組)
       口羽熊之允(寄組)
       山内新右衛門(寄組)
       熊谷岩尾(寄組)
       秋里音門(大組)
       二宮余次(大組)
南第十二大隊 高田建之助(寄組)※国司家
       山内梅三郎(寄組)
北第一大隊  御神本主殿(準一門)※益田家
北第二大隊  志道安房(寄組)
       柳沢備後(寄組)
       榎本伊豆(寄組)
       児玉主税(寄組)
       宍戸播磨(寄組)
       根来上総(寄組)
       繁沢河内(寄組)
       渡辺丹波(寄組)
北第三大隊  阿川毛利家(一門)
       周布治部(大組筆頭)
       福原相模(寄組)
       美山三郎(寄組)
       益田与三(寄組)

人数については詳しくわかりませんが、
1小隊が25人位と仮定すると、
1大隊が8小隊位ですので200人。
15大隊で約3000人。
諸隊を上回る数になります。

この正規軍は西洋式軍制に改められた為か、
諸隊との連携でも大きな軋轢は見られす、
良く機能していたようです。

大島口の戦いでは戦闘の休日と定めた日に、
南第三大隊秋良政一郎が好機を知り、
第二奇兵隊に攻撃を進言して、
松山藩兵を敗走させたりしています。
士気も諸隊と引けをとらなかったようですね。

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