服部半蔵といえば服部半蔵正成が有名。
この「半蔵」という通称は、
当主が代々受け継いで名乗っています。
昭和60年放送の時代劇「影の軍団Ⅳ」で、
15代目服部半蔵が影の軍団を率い、
幕府と対立するという話がありましたが、
実際にはそんな事はしていません。
一般的に半蔵として知られる正成の死後、
その嫡男服部正就が半蔵の名を襲名。
伊賀同心を率いる役目も引き継ぎましたが、
反発に遭って伊賀同心支配役を解かれ、
服部家と忍者との縁は切れてしまいました。
しかも正就は大阪夏の陣で討死してしまい、
半蔵の名は弟正重が継ぐことになります。
その正重も大久保長安事件で失脚し、
知行を没収されてしまうのですが、
桑名藩主松平定綱に2千石で召し抱えられ、
以後は家老家として幕末まで続きました。
※禄は2千石から代を重ねて減少し、
幕末には700石となっています。
ちなみに夏の陣で討死した正就の子も、
別家として桑名藩に召し抱えられており、
正就の正室が藩主の姉であった関係から、
一門衆として優遇されています。
服部半蔵家墓所は、
桑名市萱町顕本寺にあります。
「顕本寺」。
檀家に元桑名藩士が多いようで、
墓地には桑名藩関係者が多く眠っています。
福島正則に仕えて文禄の役で勇名を馳せ、
福島家が改易になったために浪人となり、
桑名藩士となった吉村又右衛門の墓や、
四日市代官の水谷九左衛門の墓は、
桑名市指定文化財となっています。
幕末桑名藩士の墓も多くありますが、
リサーチ不足で網羅は出来ず、
一部の幕末藩士の墓を紹介します。
「西郷朝秋之墓」。
元桑名藩士西郷朝秋の墓。
西南戦争で私学校攻撃に参加しますが、
負傷して離脱。戦病死しています。
「道源院無外日信居士」。
神風隊玉井五郎兵衛の墓。桑名藩馬廻役。
長岡攻防戦で戦死しています。
「正法院殿信徳有家日巖翠山」。
桑名藩家老吉村又右衛門宣浚の墓。
彼の著書「翠関雑記」は、
当時の文化人の感覚を感じられる文献で、
昌平黌に学び桑名藩執政になった人物。
幕末期には既に隠居していたようで、
風流を楽しんで暮らしていたようです。
慶応3年、死去。
そしていよいよ服部半蔵家の墓所へ。
4代半蔵正重は村上義明に預けられ、
村上藩に移り住んでいましたが、
後に村上家は改易処分となってしまいます。
その後に村上藩に入封した堀家も、
これに代わって正重を預かっており、
正重は29年間も村上藩で過ごしました。
そして更に堀家も一時廃藩となった為、
桑名藩初代松平定綱がこれを召し抱え、
以後は廃藩置県まで続いています。
「服部半蔵家墓所」。
墓地奥の壁際に墓石が並んでいます。
たぶん整理されて並べられたのでしょう。
左端は代不明の服部半蔵正禮と奥方の墓で、
左から3番目は代と諱が不明の当主の墓。
※服部半蔵家の当主は1~5代と、
11~代は断定されていますが、
6~10代は諸説あるようです。
「松月院殿湛然澄心日綏居士
愛染院殿妙縁日起大姉(左)」、
「服部正義墓(右)」。
11代服部半蔵正綏とその室の墓と、
12代服部半蔵正義の墓。
11代正綏は文政7年に家督を継ぎ、
慶応2年に隠居しています。
12代正義は京都在勤の松平定敬に従い、
これを補佐して藩兵を率いており、
鳥羽伏見の戦いにも参加。
北越戦争では桑名藩全軍を指揮しました。
庄内で降伏した後は謹慎処分となりますが、
藩再興後は大参事兼軍務都督に就任。
西南戦争では新撰旅団の第四中隊長として、
旧桑名藩士らを率いて軍功を挙げており、
戦後は三重県第三大区区長、
三重県御用掛を勤め、
明治19年に死去しています。
徳川十六神将の直参家系でありながら、
一時は浪人となっていた半蔵家でしたが、
最後の当主である服部半蔵正義は、
先祖の武勇に劣らぬ活躍をしたようです。
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