丸岡城の天守は全国に12棟ある現存天守ひとつで、
最も古い天正4年(1577)建造とされましたが、
最近になって寛永5年(1628)に建造されたことが判明。
犬山城に最古の天守の称号を譲る事となりました。
丸岡城は柴田勝家の甥柴田勝豊によって築城され、
勝豊が清州会議で勝家の所領となった長浜城に移ると、
同じく勝家配下の安井家清が丸岡城へ入城。
賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れて柴田家が滅びると、
越前国は丹羽長秀の所領となり、
丸岡城には長秀配下の青山宗勝が入りますが、
宗勝は関ヶ原の戦いで西軍に属した為に改易。
越前国は結城秀家の所領となり、
丸岡城は家臣の今村盛次に与えられましたが、
盛次は越前騒動により失脚。
代わって付家老本多成重が入っています。
その後、福井藩2代藩主松平忠直が、
不行跡による配流・厳封処分となった為、
本多成重は一旦幕府に戻されて、
改めて丸岡4万6300石が与えられて独立。
譜代大名丸岡藩本多家が成立しました。
丸岡城へは福井駅からバスに乗って45分。
京福バス丸岡線の終点「丸岡城」で下車してすぐ。
築城400年を記念した日本庭園式公園が造られており、
歴代城主ゆかりの品を展示した資料館もあります。
「丸岡城八幡神社」。
築城時に建立された城の鎮守社。
廃藩置県後に丸岡城が廃城となった後は、
地元信徒がささやかな祭礼を執り行っていましたが、
その社殿は荒廃していたようで、
丸岡城の復興に伴い残材で社殿が再建されています。
丸岡城天守への入場料を購入。
「丸岡歴史民俗資料館」と
「日本一短い手紙の館」の入場券とセットです。
しおり(織ネーム?)付で450円。
「日本一短い手紙」は、本多成重の父本多重次が、
長篠の戦いの陣中に妻に送った短文の手紙の事。
「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな馬肥やせ」
訳:一筆申し上げる。火に用心せよ。
仙千代を大切に育てよ。軍馬を痩せさせるな。
短い文章に伝えたい事の要点が詰まった名文です。
天守は入場券売場から登ってすぐのところ。
・・・の前に、天守周辺の石碑を拝見。
丸岡城にはいくつかの石碑があります。
「瓦石合屋文仲君碑」。
丸岡藩藩医であった合屋文仲の顕彰碑。
彼の開発した「イバラキ膏薬」は、
丸岡の名産として全国に知られていたようで、
薬を求める人が後を絶たなかったとの事。
どんな薬かはよくわかりませんが、
膏薬なので傷薬か皮膚炎の薬でしょうね。
維新後は坂井郡の東部医務締や衛生会頭となり、
私塾成美堂を開いて子弟の教育にあたりました。
「お静慰霊碑」。
丸岡城築城の際に人柱となったお静の慰霊碑とお堂。
城下に住む片目の未亡人お静は、
息子の士分取り立てと引き換えに人柱になりましたが、
ほどなく城主柴田勝豊が長浜城に移封となった為、
息子の士分取り立てはうやむやとなります。
これに人柱となったはずのお静が大蛇となって現れ、
丸岡に大雨を降らせたという。
以後、丸岡では毎年4月に大雨が降るようになり、
お堂を建立してその霊を慰めました。
慰霊碑は丸岡城の復興時に新しく建てられたもの。
「緑陰翁之碑」。
丸岡藩士町原貞煕の顕彰碑。
町原は丸岡藩の尊皇攘夷派でしたが、
藩論が佐幕となった為に、
蟄居処分となって自宅で軟禁されています。
維新後に許され小浜伝習学校の教師となりました。
「丸岡城天守」。
現存する最古の天守とされていましたが、
現在は6番目に古い天守となっています。
丸岡藩の廃藩と同時に廃城となって払い下げられ、
天守以外は全て解体されていますが、
丸岡町が天守を買い戻して保存しており、
戦前には国宝となっていました。
ですが昭和23年の福井地震で倒壊していしまい、
その修復は昭和30年になってから。
独立式望楼型2重3階建の天守で板張の外壁が特徴。
天守内にある丸岡城の模型。
現在の丸岡城は堀が完全に埋められており、
天守のある本丸跡のみとなっていますが、
かつてはこのような広い堀を持つ城でした。
丸岡藩は初代藩主本多成重から、
2代、3代と藩政に力を注ぎましたが、
4代本多重益は暗愚で酒色に溺れたとされます。
その結果、重臣達の派閥争いが起こり、
これを幕府が問題視して重益は改易。
代わって有馬清純が糸魚川藩から入封。
2代有馬一準が外様大名から譜代大名に昇格し、
以後の藩主は老中など幕府要職に就任しており、
この事から幕末期には佐幕を貫いたようです。
※2021/03/30:写真更新および文章修正。
【丸岡藩】
藩庁:丸岡城
藩主家:肥前有馬家
分類:5万石、譜代大名
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