豊臣秀吉の旗本であった蒔田広定は、
父の蒔田広光が死去すると、
その跡を継いで1万石の大名となりましたが、
関ヶ原の戦いで西軍に属したために改易。
後に舅であった大島光義や、
親交のあった浅野行長らの尽力で許されて、
備中浅尾に転封となり浅尾藩が成立しました。
広定死後に長男蒔田定正が家督を継ぎますが、
遺言で次男長広に3000石が分与された為、
蒔田家は大名の資格を喪失。
以後は旗本として江戸時代を通じて11代続き、
文久3年に江戸市中警護の功で高直しが行われ、
大名となって諸侯に列しました。
再び大名となった蒔田家でしたが、
旗本からの昇進の為、
元々外様だったはずが譜代大名となっており、
蒔田家は旗本時代より交代寄合であった為、
大名と変わらぬ統治を行っていたようです。
「浅尾藩校集義館跡」。
広孝によって開かれた学問所で、
現在は薬局チェーンの研修所となっています。
「稲荷神社」。
丘陵部の頂上のある神社で、
御殿が建てられていたとされていますが、
この神社ははじめからここにあったようで、
藩主の御殿があった場所は、
近くの民家が集まっている場所とのこと。
「浅尾陣屋跡」碑。
藩主蒔田広孝は京都見廻役を任じられており、
禁門の変では長州藩と戦っています。
その恨みが原因かはわかりませんが、
立石孫一郎ら第二奇兵隊脱走兵100余名は、
倉敷代官所を襲撃した後、
浅尾陣屋の北側にある宝福寺に宿営。
これに陣屋留守居役は立ち退きを要求し、
交渉の末に明日立ち退く事が約束されました。
しかしその深夜。
脱走兵達はひそかに浅尾陣屋に近づいて、
陣屋内の建物に次々と放火。
火事に驚いた陣屋内は大混乱となり、
夜襲と気付いた藩士らは、
大砲を発射するなど応戦しますが、
陣屋から退却しています。
知らせを聞いた藩主広孝は、
急遽幕府の許可を得て帰国。
陣屋は大半を焼失してしまっていましたが、
その修復も十分に出来ぬまま、
職務の為に京都に戻らざるを得ず、
広孝が京都見廻役を退任したのは、
慶応3年になってからでした。
その間の政務は仮藩庁を設けていましたが、
最後まで陣屋の修復もされずに、
明治維新を迎えています。
【浅尾藩】
藩庁:浅尾陣屋
藩主家:蒔田家
分類:1万石、譜代大名(定府)
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