敦賀藩は小浜藩の支藩で、
小浜藩2代藩主酒井忠直の死後、
長男の酒井忠隆が家督を継ぎますが、
次男の酒井忠稠にも1万石が分与され、
立藩した藩でした。
敦賀といえば戦国大名朝倉義景の領地で、
豊臣時代には大谷吉継が治めており、
有力大名の治める藩と思われがちですが、
敦賀藩は1万石の小大名です。
というのも敦賀の殆どは小浜藩の領地で、
敦賀藩は敦賀郡の一部を領しているだけで、
現在の敦賀市街も小浜藩の所領でした。
とはいえ歴代藩主の殆どは幕政に参加し、
大番頭、若年寄、大坂勤番等の要職を務め、
支流とはいえ名門の面目を果たしています。
特に幕末の藩主7代酒井忠毗は、
若年寄を3度も勤めており、
城主格大名に家格を上げました。
「敦賀陣屋跡」。
敦賀陣屋は別名鞠山陣屋とも呼ばれており、
徳山陣屋、飯野陣屋と共に、
三大陣屋に数えられました。
残念ながら遺構は全く無く、
私有地なので入ることも出来ません。
昔は企業の保養施設だったようですが、
今は更地となっています。
「鞠山神社」。
陣屋跡の南側にある神社。
敦賀藩は明治期に鞠山藩と改称しましたが、
明治3年に小浜藩に吸収合併されました。
その後の廃藩置県を経た明治38年に、
元藩士らが初代忠稠の二百回忌を記念して、
陣屋内にあった稲荷神社に忠稠を合祀。
社名を[鞠山神社]としました。
安政6年に東シベリア総督ムラヴィヨフが、
軍艦7隻を率いて江戸湾の品川に来航。
樺太全土をロシア領と主張して威嚇した為、
天徳寺で会談が行われましたが、
当時の外国事務掛酒井忠毗と遠藤胤統が、
ロシアの主張を退ける功績を挙げています。
その後もヒュースケン殺害事件や生麦事件、
下関戦争での賠償問題でも活躍し、
幕末期の対外交渉の一役を担いましたが、
幕勢の弱体化で立場が悪くなった為、
四男の酒井忠経に家督を譲って隠居します。
代わって藩主となった忠経は若年の為、
家老野口文太夫が藩政を専横していますが、
これをけしからんとする敦賀藩士5名は、
野口を京都で殺害しています。
その後5名のうち1人が病死し、
残りの4人は小浜藩に自首。
彼らは強く自裁を望みましたが、
廃藩置県の為にうやむやとなり、
4人は来迎寺門前で自刃しています。
※来迎寺は天狗党の処刑が行われた場所。
敦賀藩は忠毗の隠居後に新政府に恭順。
小浜藩と共に北陸道鎮撫使に参加しました。
【敦賀藩→鞠山藩】
藩庁:敦賀陣屋
藩主家:忠稠流酒井雅楽頭家
分類:1万石、譜代大名(小浜藩支藩、定府)
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