清末に用があったので清末陣屋跡に再訪。
市内とはいえ行動範囲とは外れていますし、
これといった遺構があるわけでもない。
なかなか訪問する機会も無いのですが、
気が向いたのでちょっと行ってみました。
清末藩は唯一の孫藩という立場にある藩。
長州藩の支藩長府藩のさらに支藩で、
長州藩を親とすれば孫のような立場でした。
全国の他の支藩が分家を作り、
1万石以上を与えた例はありましたが、
幕府に認められたのは清末藩だけ。
※幕府朱印状を得ていた。
長府藩の初代藩主である毛利秀元は、
3代将軍徳川家光の信任が厚く、
また老中稲葉正則と婚戚であった事などが、
支藩の支藩という異例を可能としました。
勿論幕藩体制が黎明期であった事も、
大きく関わっていると思われます。
とにかく唯一の[孫藩]である清末藩は、
長府藩より1万石の分知で立藩しました。
清末藩は長府藩の支藩なわけで、
長州藩士からは陪々臣になるわけですが、
普通に支藩として厚遇されています。
孫藩の呼称は後世に付けられたもので、
通常の支藩として扱ったのでしょう。
「下関市立東部中学校」。
現在の清末藩の陣屋跡は、
下関市立東部中学校となっています。
校内を隅から隅まで探してみれば、
何らかの遺構もあるかもしれませんが、
公表されている遺構はないようです。
「清末藩邸跡」碑。
東部中学校正門の西側にある碑。
長府藩の陣屋には跡碑がありませんが、
清末藩には立派な跡碑が建てられています。
「六角池」。
清末藩が立藩するまで周辺には井戸がなく、
大地主石井家の井戸を皆で使ったという。
清い水が無限に湧くその井戸が、
清末の地名の由来とされています。
井戸は昭和30年頃に埋められていますが、
その井戸に付けられていた井戸の囲いが、
ここに移設されて保存されました。
「陣屋の池」。
天然の堀として利用されたもので、
明治以降は灌漑用水池として利用された池。
現在は陣屋をイメージした東屋が建てられ、
歩道整備、鯉の放流などが行われています。
「清末内藤家表門」。
数少ない清末武家屋敷の遺構で、
代々家老を務めた内藤家の屋敷の表門。
清末藩は長府藩初代秀元の三男毛利元知が、
3代毛利綱元に分知されて立藩しますが、
長府藩5代毛利元矩が早逝ししまった為、
清末藩2代毛利元平が毛利匡広を名乗り、
6代長府藩主となって清末藩は一時断絶。
後に元平の七男毛利政苗が清末藩主を継ぎ、
清末毛利家は再興します。
その後は5代以降養子が続いており、
最後の藩主毛利元純も日出藩の養子でした。
代々養子の藩主が家臣を連れて来た為、
藩内は一枚岩ではなかったようで、
家臣間に軋轢のようなものもあったという。
名君であった元純は藩論を勤皇にまとめ、
宗家の名代として活躍。
幕長戦争では石州口で幕軍を撃破し、
浜田藩退去後の浜田領を管理しています。
清末藩の御用商小倉屋白石正一郎は、
高杉晋作と共に奇兵隊を創設。
その縁か奇兵隊守護旗の菅原大神の旗は、
元純の揮毫によるものでした。
【清末藩】
藩庁:清末陣屋
藩主家:元知流安芸毛利家
分類:1万石、外様大名(長州藩支藩(孫藩))
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