今も京都などの観光地にある人力車。
車輪が付いた乗物を人が引いて走るという、
なんとも原始的なものなんですが、
文明開化な雰囲気の不思議な乗り物です。
これはドラマの影響なんでしょうが、
江戸から東京に変わって登場し、
文明開化の象徴となっています。
ですがこれは外国製なわけではなく、
日本で発明されたもの。
・・というより大八車とほぼ変わらないし、
大八車に怪我人を乗せる事もあったので、
実際は発明ってほどでもないし、
遥か昔の三国志の時代には、
諸葛亮孔明も前後の差はあるものの、
そういう風な乗り物に乗っています。
明治期のようなカタチの人力車の登場は、
明治2年頃、和泉要助、高山幸助、
鈴木徳次郎の3人が、
馬車をヒントに発明したとされています。
これには異説もあって、
明治元年には既にあったとする説もあり、
当時は多くの人が自分が発明したと、
あとから名乗り出たりしたようです。
ともかく駕籠より速く、
馬車より安価ということもあり、
驚異的な速さで普及する事になりました。
これには幕府瓦解に伴い、
幕府や諸大名屋敷の奉公人が、
失職で車夫に転向するケースが多く、
バブル崩壊後にタクシーが増えた時と、
非常によく似ています。
タクシーに似ているといえば、
急激に増えた人力車に対し、
政府が規制を行ったことも似ています。
政府は賃金上限の設定や税金の設定など、
人力車だらけになってしまわないように、
いろいろと歯止めに乗り出しました。
とはいえ失業者を救ったという意味では、
人力車は明治維新に貢献したともいえ、
路面電車や自動車が普及するまで、
明治期のメインの交通手段となっています。
この人力車の車夫には上記した奉公人の他、
時代おくれとなった駕籠かきも転向し、
没落士族も車夫となっていたりします。
大身旗本であった白須甲斐守の子息某は、
車夫となって本郷あたりに住んでいました。
この白須某はある日旅人姿の客を乗せて、
本郷から板橋に向かっています。
走っていると客が、
「白須の若殿ではございませんか?」
と言うので、
「お尋ねのとおり甲斐守の倅ですが、
今は面目も無い次第でございます」
と答えました。
すると客はすぐさま車から降りて、
「若殿様とは存じませず失礼しました」
と詫びます。
客は先代に奉公していた弥平という者で、
群馬県で相応に暮らしているという事で、
どうにか別に暮らしが立つように、
良職を紹介しましょうと言ったという。
これは東京曙新聞に書かれた美談ですが、
まあ仕事を紹介するしないは別として、
身分の逆転現象も多くあったのでしょうね。
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