所領に海岸線がある諸藩の多くが、
海側に藩庁を定めていますが、
これはとても理に適っていました。
海運という非常に迅速な交通手段が使え、
内陸の領地から米や物産を川を使って、
下流の城に運びこむ事も出来ます。
流通は財政を大きく左右しますので、
必然的に海側に藩庁が集まりました。
また防備の面でも非常に有利で、
海が巨大な堀の役目を果たしますので、
守り易いという利点もあります。
福岡城… 続きを読む
所領に海岸線がある諸藩の多くが、
海側に藩庁を定めていますが、
これはとても理に適っていました。
海運という非常に迅速な交通手段が使え、
内陸の領地から米や物産を川を使って、
下流の城に運びこむ事も出来ます。
流通は財政を大きく左右しますので、
必然的に海側に藩庁が集まりました。
また防備の面でも非常に有利で、
海が巨大な堀の役目を果たしますので、
守り易いという利点もあります。
福岡城… 続きを読む
古心寺は秋月藩黒田家の菩提寺。
秋月藩初代藩主黒田長興が、
父の菩提を弔うために建立されたもので、
廃藩置県後に黒田家の庇護を離れたために、
本堂を甘木の光照寺へ移し、
山門を弥永の浄光寺に移して、
福岡藩初代黒田長政(長興とも)の… 続きを読む
黒田家以前の筑前領主小早川秀秋の居城は、
博多湾に突き出した丘陵の名島城でした。
名島城は防御には適してはいましたが、
立地的に城下町整備の余裕が無かった為、
その後に筑前に入封した黒田長政は、
福崎に新しく居城の建設を決定します。
黒田家ゆかりの備前国福岡にちなみ、
築城の際に福崎の地名を「福岡… 続きを読む
※2020/02/04 画像の一部差し換え。
崇福寺は元々大宰府にあった臨済宗寺院で、
黒田長政が関ヶ原の戦いの功績により、
筑前国52万石となった際に移転しました。
以後は福岡藩黒田家の菩提寺として、
福岡藩の庇護を受けて隆盛したようです。
廃仏毀釈運動の煽りで荒廃していたのを、
明治28年に渡辺玄外が住職となり復興。… 続きを読む