山口県山口市 所郁太郎の墓

山口政事堂からの帰り道、
刺客に襲われて重傷を負った井上聞多は、
最早これまでと実兄井上光遠に介錯を乞う。
そこへ母の房子が止めに入り、
兄に介錯を思い留まらせます。

所郁太郎美濃の醸造屋の子で、
医師の所伊織の養子でした。
加納藩の藩医である青木松軒や、
京の蘭医安藤桂洲に学び、
後に大坂の緒方洪庵にも学んでいます。
京都で医院を開業していましたが、
長州藩邸が近くにあったことから、
長州藩士と交わり尊皇攘夷思想に目覚めます。

所郁太郎
文久3年には長州藩京都藩邸に招かれ、
医院総督になっていますが、
八月十八日の政変七卿と共に長州に移り、
正式に藩士となり遊撃軍軍監に任命されます。
長州藩の京都進発にも遂行し、
禁門の変を経て再び長州に戻りました。

井上が襲われた際には、
郁太郎が知らせを受けて駆けつけますが、
※偶然訪問したともされます。
既に長野昌英日野宗春の二人が診ており、
どうにもならない状態であったという。
井上の母の必死の嘆願を受けた所は、
これに答えて手術を決意します。
二人の医者を助手として畳針で縫合。
50針を縫う大手術の末、
後の元老井上馨の命は救われました。

所はその後の内訌戦に参加していますが、
翌年に腸チフスによって死去しています。

所郁太郎の墓は山口市吉敷東三舞墓地

山口市吉敷周辺(三舞墓地の場所)

道の突き当りの崖が三舞墓地。
急な斜面にお墓があるタイプの墓地です。

ちょっと親切過ぎ??
こういう看板は各所に設置されていますが、
ここが一番親切だと思われます。
というか親切過ぎか?
曲り道ごとに看板があります。
見える範囲に一枚で良いと思う。

で、墓地の一番上のあたり。
看板のおかげで迷うことなく到着。

所郁太郎源直則神霊」。
井上の命を救った事は知られていますが、
遊撃軍軍監だったのは知られていないかも?
適塾で同窓の大村益次郎もそうですが、
医学と軍学を習うのが常識だったのか?
それとも適塾での常識?
とにかく軍事面での知識を買われ、
遊撃軍の軍監となったのでしょう。
軍事面で活躍出来ぬまま病死していますが、
最低でも医学においては、
最高の功績を残したといえるでしょう。

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 所郁太郎は適塾門下生。

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