つづき。
①/②/③
別料金を支払って本壇へ。
コロナ対策の為に体温測定と手の消毒、
連絡先の記入をしなければなりません。
先に行った二之丸史跡庭園や、
ロープウェイ乗場も同様にしましたので、
松山城で3回も同じ事をしました。
手間ですが対策は多い方が良いでしょう。
「一ノ門」。
本壇は非常に複雑な構造をしており、
天守へは4つの門を通らねばならず、
本壇自体が城のようになっています。
「二ノ門」。
一ノ門を越えて石段を左に行くと二ノ門。
「三ノ門」。
二ノ門を越えて左に迂回すると三ノ門。
「筋鉄門」。
三ノ門の先に最後の筋鉄門があり、
これを抜けると天守広場となります。
「天守入口」。
石垣をくりぬかれた入口。
本来の入口ではありませんが、
ここで靴を脱いで建物内に入ります。
内部は他とそれ程変わりはありませんが、
みよちゃんと2人で内部を探検。
急な階段が面白かったようです。
大天守から本丸跡を望む。
松山市街が一望できます。
本壇を出て搦手側へ。
「伯爵久松定謨頌徳碑」。
久松家当主久松定謨の頌徳碑。
松山藩知事久松定昭は明治5年に死去し、
定昭の遺言によって久松家を継いでいます。
陸軍で歩兵第1旅団長や、
歩兵第5旅団長を歴任しており、
最終階級は陸軍中将でした。
「艮門東続櫓」。
艮門は本壇の鬼門方向にあり、
不浄門とも呼ばれます。
大手や搦手を攻める敵の側面を襲う為、
出撃口の役割も持っていたとされます。
昭和59年に再建。
「野原櫓」。
野原櫓は乾櫓と共に本丸西北を防備し、
日本で唯一現存する望楼型二重櫓で、
天守の原型とされています。
国指定重要文化財。
「乾櫓」と「乾櫓門」。
本丸搦手口で、本丸西北の防備を担当。
乾櫓は現存遺構で国の重用文化財。
乾櫓門は昭和57年に再建されたもの。
安政3年に13代藩主となった松平勝成は、
幕命によって神奈川警備にあたっています。
江戸城本丸が焼失した際は1万両を上納。
一方で領内は安政南海地震によって被災し、
藩は度重なる出費で財政難に陥りました。
文久年間には将軍上洛に従い、
藩兵を率いて京都警備を勤めており、
禁門の変では御所南門や、
三条通紙屋川辺警備を担当しました。
戦後の長州藩兵の掃討も行っています。
第二次長州征伐の際には大島口を担当し、
藩兵を周防大島に上陸させますが、
第二奇兵隊等の長州勢の反撃を受けて撤退。
幕長戦争が長州藩の勝利で幕を閉じると、
松山藩は郡奉行奥平三左衛門らを派遣し、
大島での行動を謝罪して捕虜の交換を行い、
翌年にも津田十郎兵衛らが長州に赴き、
重ねて遺憾の意を伝えています。
慶応3年に14代松平定昭が藩主となると、
幕府は最年少の老中に任じますが、
僅か1ヶ月後に徳川慶喜が大政奉還した為、
すぐに老中を辞任しています。
鳥羽伏見の戦いには幕軍として参戦し、
直接戦闘には参加していませんが、
慶喜の敵前逃亡を知った後に、
藩兵を率いて領内に戻りました。
新政府は松山藩を朝敵とした為、
定昭は謹慎して恭順の意を示して開城。
松山城は土佐藩に接収されていますが、
15万両の献上を条件に許されており、
藩主は勝成が再就任する事となって、
姓を松平から久松に戻しています。
親藩で佐幕的であったようですが、
立地的に大洲藩、宇和島藩、土佐藩、
長州藩等の勤皇諸藩に囲まれており、
恭順以外に道は無かったでしょう。
藩内には抗戦派が多くこれを抑える為に、
恭順を主導した三上是庵が奔走。
新政府側も松山藩の真意を探っており、
変装した間者を潜り込ませていた他、
杉孫七郎が藩主父子謹慎の実情を調査。
なんら不穏な状況は見つからなかった為、
松山藩の誠意が認められています。
①/②/③
【伊予松山藩】
藩庁:伊予松山城
藩主家:定勝系久松松平宗家
分類:15万石、親藩大名
■関連記事■
・愛媛県松山市 大林寺/松山藩松平家墓所
伊予松山藩久松松平家の合葬墓。
・愛媛県松山市 常信寺/松山藩松平家墓所
伊予松山藩初代松平定行の霊廟。
・岡山県高梁市 備中松山城①
備中国にあった同名の城。現存天守。
・三重県桑名市 桑名城跡
同族の桑名藩久松松平家の居城跡。