愛媛県松山市 伊予松山城③

つづき。
//③

別料金を支払って本壇へ。
コロナ対策の為に体温測定と手の消毒、
連絡先の記入をしなければなりません。
先に行った二之丸史跡庭園や、
ロープウェイ乗場も同様にしましたので、
松山城で3回も同じ事をしました。
手間ですが対策は多い方が良いでしょう。


一ノ門」。
本壇は非常に複雑な構造をしており、
天守へは4つの門を通らねばならず、
本壇自体が城のようになっています。


二ノ門」。
一ノ門を越えて石段を左に行くと二ノ門


三ノ門」。
二ノ門を越えて左に迂回すると三ノ門


筋鉄門」。
三ノ門の先に最後の筋鉄門があり、
これを抜けると天守広場となります。


天守入口」。
石垣をくりぬかれた入口。
本来の入口ではありませんが、
ここで靴を脱いで建物内に入ります。


内部は他とそれ程変わりはありませんが、
みよちゃんと2人で内部を探検。
急な階段が面白かったようです。


大天守から本丸跡を望む。
松山市街が一望できます。

本壇を出て搦手側へ。

伯爵久松定謨頌徳碑」。
久松家当主久松定謨の頌徳
松山藩知事久松定昭は明治5年に死去し、
定昭の遺言によって久松家を継いでいます。
陸軍で歩兵第1旅団長や、
歩兵第5旅団長を歴任しており、
最終階級は陸軍中将でした。


艮門東続櫓」。
艮門は本壇の鬼門方向にあり、
不浄門とも呼ばれます。
大手や搦手を攻める敵の側面を襲う為、
出撃口の役割も持っていたとされます。
昭和59年に再建。


野原櫓」。
野原櫓乾櫓と共に本丸西北を防備し、
日本で唯一現存する望楼型二重櫓で、
天守の原型とされています。
国指定重要文化財


乾櫓」と「乾櫓門」。
本丸搦手口で、本丸西北の防備を担当。
乾櫓は現存遺構で国の重用文化財。
乾櫓門は昭和57年に再建されたもの。

安政3年に13代藩主となった松平勝成は、
幕命によって神奈川警備にあたっています。
江戸城本丸が焼失した際は1万両を上納。
一方で領内は安政南海地震によって被災し、
藩は度重なる出費で財政難に陥りました。
文久年間には将軍上洛に従い、
藩兵を率いて京都警備を勤めており、
禁門の変では御所南門や、
三条通紙屋川辺警備を担当しました。
戦後の長州藩兵の掃討も行っています。

第二次長州征伐の際には大島口を担当し、
藩兵を周防大島に上陸させますが、
第二奇兵隊等の長州勢の反撃を受けて撤退。
幕長戦争が長州藩の勝利で幕を閉じると、
松山藩は郡奉行奥平三左衛門らを派遣し、
大島での行動を謝罪して捕虜の交換を行い、
翌年にも津田十郎兵衛らが長州に赴き、
重ねて遺憾の意を伝えています。

慶応3年に14代松平定昭が藩主となると、
幕府は最年少の老中に任じますが、
僅か1ヶ月後に徳川慶喜大政奉還した為、
すぐに老中を辞任しています。
鳥羽伏見の戦いには幕軍として参戦し、
直接戦闘には参加していませんが、
慶喜の敵前逃亡を知った後に、
藩兵を率いて領内に戻りました。

新政府は松山藩を朝敵とした為、
定昭は謹慎して恭順の意を示して開城。
松山城は土佐藩に接収されていますが、
15万両の献上を条件に許されており、
藩主は勝成が再就任する事となって、
姓を松平から久松に戻しています。

親藩で佐幕的であったようですが、
立地的に大洲藩宇和島藩、土佐藩、
長州藩等の勤皇諸藩に囲まれており、
恭順以外に道は無かったでしょう。
藩内には抗戦派が多くこれを抑える為に、
恭順を主導した三上是庵が奔走。
新政府側も松山藩の真意を探っており、
変装した間者を潜り込ませていた他、
杉孫七郎が藩主父子謹慎の実情を調査。
なんら不穏な状況は見つからなかった為、
松山藩の誠意が認められています。

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伊予松山藩
藩庁:伊予松山城
藩主家:定勝系久松松平宗家
分類:15万石、親藩大名

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