山口県最大の歓楽街であるという豊前田。
僕はあまり酒が強い方ではなく、
飲み歩くというクセがないもので、
地元ながらそれほど詳しくはないのですが、
その割に若い頃に大阪北新地のクラブで働いていたので、
夜の飲食業の仕組みはある程度詳しかったりします。
高校卒業して就学の為に大阪に出て以降、
平成4年より20年間大阪に在住していたので、
豊前田通りには下関に帰ってから旧友に連れられて、
何軒かの「おねえちゃんのいる店」に行った程度。
上記のように飲み歩くクセがないもので、
豊前田に関しては殆ど知りません。
この豊前田通りはいつのまにか「晋作通り」と命名され、
通りの東端には晋作の胸像が建てられています。
「晋作通り標柱(高杉晋作胸像)」。
お猪口を持ってご機嫌な晋作です。
この胸像の場所から山手に登ると日和山公園となっており、
高杉晋作陶像が建てられています(記事はこちら)。
「豊前田通り(晋作通り)」。
晋作通りと名付けられていますが、
地元の人達は普通に「豊前田」と呼んでいます。
ここはかつて長府藩筆頭家老細川家の領地で、
Wikipediaには「細川氏が豊前国小倉出身だったから、
「豊前田」の名が名付けられた」と記載されていますが、
長府細川家は備中守護細川政春の末裔で、
豊前国の出身ではありませんし、
長府の細川家が豊前守を名乗ったという話もない。
それよりは豊前が肥後細川家の所領だった事に因み、
対岸のここも細川家(系譜は違う)の所領ということで、
「ここも豊前だ」と呼ばれたのかも?
また単純に対岸の豊前国の玄関口であった為、
そう呼ばれたという気もしないでもない。
とにかくWikiを鵜呑みにしてはいけませんね。
全国の歓楽街の殆どが江戸期には遊郭や花街でしたが、
下関の遊郭は稲荷町や裏町で(記事はこちら)、
この豊前田はだだの港町でしたが、
明治期に下関駅が開業したことにより、
遊郭町として発展したもの。
つまり晋作はここで遊んでいたわけではありませんが、
地元の英雄にあやかり「晋作通り」と名付けられました。
各地で武勇伝(遊びに関しての)のある晋作は、
飲み屋街のシンボルとして相応しいといえます。
もちろん晋作像のある日和山が近いという意味では、
全くの無関係ではありませんが。
■関連記事■
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稲荷町の上臈が安徳天皇陵に参拝した事が起源。
・晋作と西郷は会っていたのか?
稲荷町の大阪屋で、晋作と西郷が会ったとされます。
・晋作と西郷は会っていたのか?2
晋作、西郷会談説の追記。