下関市上新地町 萩藩新地会所と高杉東行療養之地

高杉晋作が功山寺で挙兵した後、襲った「萩藩新地会所」。
厳島神社の鳥居の横に碑があります。


萩藩新地会所」。
小さな碑と説明板からは、その規模がイメージしづらいのですが、
碑のある場所を南東の角として、下関上新地郵便局や、
エネオスあたりまでの敷地だったんじゃないかと推測します。

ここを襲ったとされる晋作達クーデター軍ですが、
新地会所を取り囲んで空砲を鳴らすと、
会所取締役の根来上総が抵抗なしに解錠したとされています。
この件は根来上総のその後の藩内の立場から、
申し合わせていたようなふしがあるように感じられます。

功山寺により近い「馬関越荷方役所」を襲わなかった事も、
そういう事があったのではないかと思うのです。
馬関越荷方役所であれば、軍資金も豊富にあったはずですね。

白石邸に近かったということや、占領後の防衛の点、
長府が敵になった場合の時間稼ぎができる点、
後方を突かれる心配がない点など、
新地会所を選んだ理由は探せばありますので、
断定はできませんけどね。

さて、説明板の横に「高杉東行療養の地 220m」とあります。
案内に従って細道を進んでみましょう。


こういう案内って、結構わかり辛かったりするのですが、
わかりやすい案内がされています。
高架や階段がありますので、車ではこちらから行けません。


高杉東行療養之地」。
小倉戦争の最中に労咳の悪化させた晋作は、
この地に移り住んで療養に専念します。
空家を晋作の刀(安芸国佐伯荘藤原貞安?)を売って買ったとも、
野村望東尼用の住まいとして建てられたとも云われます。
でも藩は晋作の為に、藩医を大宰府から呼び戻していますので、
愛刀を売るまでする必要なかったのではないでしょうか?
売刀買山住・・・」という晋作の詩から、
晋作は愛刀を売ったとされていますが、
これは詩作のうえの盛った話だと思いますね。
現在、晋作の刀が行方不明な事が、
刀を売って購入した説が通説になっている理由でしょう。

とにかくこの一軒家を「東行庵」若しくは「捫虱処」と名付け、
おうのと望東尼の介護を受けて療養しました。
・・が、結局ここを引き払い林算九郎の離屋に移っています。

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 クーデターに参加して勝ち組になるはずが・・・。


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