下関市清末 高林寺/清末藩毛利家墓所(再訪)

清末藩毛利家の菩提寺高林寺に再訪。


山門」。
天和2年(1682)の創建当時のまま残る山門
安政2年に火災が起こっており、
本堂など他の建造物は焼失しています。
5年前は娘と訪問しましたが、
今回は息子と2人でやってきました。


本堂左側より毛利家墓所へ。


清末毛利家墓所」。
石段を上ると現れる毛利家墓所。
墓所は2段になっており、
手前は側室達の墓となっています。


初代 毛利元知の五輪塔(左)」、
大原院殿覚翁了照大居士(右)」。
初代毛利元知と3代毛利政苗の墓。
清末藩は長府藩初代毛利秀元の遺言により、
三男元知が1万石を分与され立藩したもの。
長州藩の支藩である長府藩が、
さらに支藩を立藩させた為に、
清末藩は全国唯一の孫藩とされています。

元知の死後に跡を継いだ2代毛利元平は、
長府藩5代毛利元矩が継嗣なく死去した為、
長府藩6代毛利匡広として長府藩を相続。
清末藩は一時断絶していましたが、
後に長府藩6代毛利師就が、
弟の毛利政苗に1万石を与えられ、
断絶していた清末藩は再興されます。


毛利刑部少輔大江匡邦入道墓」。
4代毛利匡邦の墓。
藩校育英館を創設するなど、
様々な改革を行ったとされています。


幽峯院殿賢洞蓉仙大居士(左)」、
慈徳院殿實巌良英大居士(右)」。
5代毛利政明と7代毛利元承の墓。
5代政明は長島藩藩主増山正賢の次男で、
父が2代元平(匡広)の曾孫である事から、
4代匡邦の養嫡子に迎えられました。
しかし家督を継いですぐに死去してしまい、
自殺毒殺ではないかともされています。
7代元承は長府藩主毛利元義の十一男。
6代藩主毛利元世の養嫡子となり、
元世の死により跡を継ぎますが、
僅か4年で早逝しています。


善徳院殿賢巌良哲大居士」。
6代藩主毛利元世の墓。
堅田藩だった堀田正敦の六男で、
5代政明の末期養子となって家督を相続。
駿府加番大番頭を務めており、
外様ながら幕政に参加しています。

この場所にあるのは7代まで。
8代以降は奥に入った新墓所にあります。

内藤家墓所」。
毛利家墓所の傍らにある内藤家の墓所。
内藤家は代々首席家老を務めた家柄でした。


新墓所」。
山道を進むと整地された場所が現れ、
ここに8代以降の墓があります。
たぶん先ほどの墓所が手狭となった為に、
第二墓所として開いたものと思われます。


贈従三位毛利元純之墓(中央)」、
贈従三位毛利元純継室智海之墓(右)」、
従三位勲四等子爵毛利元忠之墓(左)」。
8代藩主毛利元純、元純継室万佐子
9代当主毛利元忠の墓。
毛利元純は日出藩藩主木下俊敦の四男で、
7代元承の急逝により末期養子となります。
支藩長府藩の更に支藩という立場でしたが、
総宗家長州藩の名代として活躍しました。
奇兵隊守護旗菅原大神の揮毫もしており、
幕長戦争では石州口を担当し、
占領した浜田藩領の経営を行っています。
右の墓は継室万佐子の墓で、
万佐子は大野毛利家8代毛利熈頼の娘。
左は元承の跡を継いだ毛利元忠の墓。

清末毛利家は孫藩ながら長州藩主も輩出し、
※長州藩7代毛利重就
その血筋は後の長州藩13代毛利敬親
長府藩の毛利元周毛利元敏に繋がります。

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