彦根藩11代藩主井伊直中は、
腰元若竹が不義の子を宿した為、
これを誅しましたが、
後に不義の相手が嫡嗣井伊直清と発覚。
自らの手で初孫を殺した事を悔い、
若竹と初孫の為に天寧寺を創建しました。
「仏殿(羅漢堂)」。
五百羅漢と布袋像が安置されている仏殿。
創建当時の建物のようですが、
かなりの改修が加えられているようです。
「五百羅漢」。
名工駒井朝運による537体の木像羅漢像。
亡き親、子供、愛しい人に会いたくば、
五百羅漢に籠れと云われており、
必ず自分の探し求める人の顔があるという。
裏手には布袋像が安置されているのですが、
残念ながら写真を撮るのを忘れました。
「井伊直弼公供養塔」。
境内にある井伊直弼の供養塔。
桜田門外の変で直弼は暗殺されましたが、
公には病死したことにされ、
現場の血染めの遺品が集められ、
それが四斗樽4杯に詰められて、
密かに彦根へ運ばれます。
これらの埋葬は人目が憚られた為に、
庶民の入山が禁止された天寧寺が選ばれ、
ここに埋められて供養塔が建てられました。
今も血染めの遺品が埋まっているという。
「長野義言之奥津城」。
井伊直弼の謀臣長野主善の墓。
長野は伊勢国の出身とされますが、
実際の出自は謎のようで、
国学や和歌に精通した文化人とされ、
部屋住みの直弼は長野と知り合い、
和歌の弟子となっています。
後に直弼が藩主となると取り立てられ、
将軍継嗣問題では裏工作を担当し、
一橋派や尊攘派志士の処罰を進言。
安政の大獄に大きな役割を果たしました。
直弼暗殺後は次代の井伊直憲から疎まれ、
天誅騒ぎで危険が迫った為、
これを避けて彦根に戻っていますが、
尊攘派の進言を受けた直憲の命で捕縛され、
斬首されて打ち捨てられています。
後に直弼が顕彰されるようになった為、
この奥津城が建立されました。
脇の石碑には時世の句が刻まれています。
飛鳥川 昨日の淵は 今日の瀬と
変わるならひを 我が身にぞ見む
「たか女之碑」。
安政の大獄に貢献した村山たかの墓。
多賀大社の寺坊尊勝院の娘として生まれ、
生後すぐに寺侍の村山家の幼女となり、
14代井伊直亮の腰元となりました。
その後は京都に上って祇園で芸妓となり、
私生児(多田帯刀)を産んだ後に彦根に戻り、
部屋住みであった直弼と出会ったとされ、
直弼が安政の大獄を行った際には、
情報を探る間者の役目を果たします。
※直弼と深い関係にあったとされ、
後に長野の妾になったとされています。
直弼が暗殺された後に天誅騒ぎが起こると、
捕らえられて三条河原に3日3晩晒され、
息子帯刀は斬殺されて首を晒されました。
その後は出家して妙寿尼と名乗り、
維新後の明治9年まで生きています。
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・東京都世田谷区 豪徳寺/彦根藩井伊家墓所
彦家藩井伊家の歴代墓所のひとつ。
・滋賀県彦根市 彦根城①
彦根藩井伊宗家の居城跡。
・福井県鯖江市 鯖江陣屋跡
安政の大獄を行った間部詮勝の本拠。