京都府京都市 泉涌寺

泉涌寺皇室菩提所として知られています。

平安時代創建の仙遊寺を僧俊芿が再興し、
境内から清水が湧いた為に泉涌寺と改称。
後鳥羽上皇後高倉院などから勧進を受け、
堂塔伽藍が建立されました。
それ以来より皇室との縁深い寺院となり、
後に後堀河天皇が皇室祈願寺と定め、
後堀河天皇と次代四条天皇の御陵が築かれ、
皇室の御寺としての寺格が備わります。
その後は天皇の御火葬所を経て、
江戸時代より天皇の御陵が造営されました。


大門」。
桃山時代の本瓦葺四脚門の大門で、
元々は京都御所の内裏門でした。
慶長16年(1611)の後水尾天皇即位の際、
徳川家康が御所を再建していますが、
その際に移築したものとされています。 
国指定重要文化財

大門は他の寺院と同様のものですが、
泉涌寺では大門をくぐると下り坂となり、
下に降るようになっています。


泉湧水屋形」。
寺名の由来となった清泉を覆う屋形
今も尽きることなく湧き出しているという。
近くには浴室もあります。


仏殿」。
創建当初の仏殿応仁の乱で焼失しており、
4代将軍徳川家綱が再建したもの。
本尊は運慶釈迦阿弥陀弥勒三世仏
こちらも国指定重要文化財。


舎利殿」。
仏殿の真後ろにある舎利殿
元々は京都御所に置かれていた建物で、
慶長年間に現在地に移築されたという。
俊芿の弟子湛海が持ち帰った仏牙舎利が、
韋駄天像月蓋長者像と共に、
ここに納められています。


霊明殿」。
歴代天皇皇后の尊牌を安置する霊明殿
明治15年に焼失していますが、
明治天皇の勅命により明治17年に再建。


月輪陵後月輪陵」。
月輪陵後月輪陵の被葬者は以下のとおり。
■御陵25陵
87代四条天皇、
108代後水尾天皇・皇后、
109代明正天皇
110代後光明天皇
111代後西天皇
112代霊元天皇・皇后、
113代東山天皇・皇后、
114代中御門天皇・皇太后、
115代櫻町天皇・皇太后、
116代桃園天皇・皇太后、
117代後櫻町天皇
118代後桃園天皇・皇太后、
119代光格天皇・皇后、
120代仁孝天皇・皇后・皇太后、
陽光太上天皇(107代後陽成天皇の父)
■灰塚5塚
103代後土御門天皇
104代後柏原天皇
105代後奈良天皇
106代正親町天皇
107代後陽成天皇
■その他、親王皇女の墓9基。
他の御陵と同じく非公開。
勿論宮内庁の管轄地です。

仏殿の北側より觀音寺陵後月輪東山陵へ。
境内脇の砂利が敷かれた坂を登る。

觀音寺陵」。
86代後堀河天皇の円丘形状の御陵。
後鳥羽上皇の兄守貞親王の三男でしたが、
承久の乱により仲恭天皇が退位した為、
後堀河天皇として即位します。
即位時は10歳であった為、
父の守貞親王が太上天皇として、
天皇に代わって院政を行いました。
後に後堀河天皇も院政を行う為に譲位し、
2歳の四条天皇が即位していますが、
太上天皇となって2年足らずで死去。
子の四条天皇も12歳で事故死しています。

さらに登って後月輪東山陵へ。

後月輪東山陵」。
121代孝明天皇の円丘形状の御陵。
奥に英照皇太后後月輪東北陵もあります。
孝明天皇は仁孝天皇の第四皇子に生まれ、
仁孝天皇の崩御後に即位しました。
孝明天皇は勤皇志士達の崇拝対象となり、
幕府の弱体化で朝廷の権威は高まりますが、
孝明天皇自体は幕府との共存が本位であり、
京都守護職松平容保を信頼する傍ら、
尊攘派(特に長州)を嫌っていたようです。
幕末において「」が何より重要で、
それが本人の意思かどうかは別として、
その権威が政治利用されるに至る訳で、
幕末史の主役は孝明天皇とも云えます。

その死のタイミングから毒殺説が根強く、
明治天皇すり替え説などにも繋がりますが、
その全ては科学的根拠のないもので、
既に結論が出ている陰謀論となっています。
しかし現在も政治利用され続けられており、
その説を唱え続ける人達が、
どのような思想を持つ人かを調べれば、
おのずとその理由がわかる訳ですね。

この孝明天皇の御陵より古式に改められ、
仏式葬石塔から円丘形状となっています。
これは文久の修陵山陵奉行戸田忠至が、
古式での埋葬での回帰を建言したもので、
後堀河天皇以来の円丘で築かれました。
※葬儀は仏式にて執り行われています。

次代の明治天皇から昭和天皇までは、
上円下方墳が採用されており、
天智天皇山科陵を参考にされました。
※後に上円下方墳ではなく、
 八角墳であった事が判明されています。

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