明治元年8月23日、
新政府軍は鶴ヶ城に迫り、
会津藩は籠城戦を決意しました。
そこで友軍の米沢藩に援軍を要請する為、
堀粂之助と吉村寅之進を米沢に派遣。
2人は9月3日に米沢に到着し、
直ちに家老竹俣久綱に面会し、
包囲された鶴ヶ城への援軍を要請します。
しかし米沢藩は総督色部長門を新潟で失い、
全軍を新潟から退却させており、
土佐藩、高鍋藩、広島藩に降伏を勧められ、
※土佐藩は藩主斉憲の正室貞姫の実家、
高鍋藩は9代治憲の生家、
広島藩は11代斉定の継室美代姫の実家。
既に新政府軍に降伏を申し入れており、
藩主の上杉斉憲は謹慎していました。
援軍を断られた使者の堀粂之助は自害。
龍泉寺に葬られています。
「龍泉寺」。
寺歴はよくわかりませんが、
米沢城下東側にある浄土宗の寺院。
あとで調べたところによると、
米沢藩医伊東家の菩提寺でもあるようで、
伊東家は藩医伊東昇迪、伊東祐順、
政治家平田東助、寺社建築家の伊東忠太、
昭和期の海軍中将平田昇を輩出しています。
「誠忠義勇居士」。
会津藩士堀粂之助光器の墓。
堀は米沢藩に援軍を断られて悲観し、
君命に背いた事を恥じて自刃を決めますが、
吉村は米沢が駄目なら仙台へと主張。
しかし堀は君命は米沢藩の援軍要請で、
仙台藩の援軍要請ではないとこれを拒絶し、
2人の意見が割れた為に別れ、
堀は東町の旅籠越後屋の主人に金子を与え、
一室を借りて後事を託して自刃しました。
主人はこの金子で龍泉寺に葬ったそうで、
写真中央の墓碑を建立しています。
後の昭和46年に新しい墓碑が整備され、
時世の歌碑も建立。
神かけて誓ひしことのかなはねば
ふたたび家路思はざりけり
同じく使者の吉村寅之進のその後は不明。
戦死は確認されていないようで、
たぶん同役が潔い死を選んで称えられた為、
これを恥じてひっそり暮らしたのでしょう。
しかし吉村の意見は至って正論ですし、
命じた君主松平容保が欲しいのは援軍で、
[米沢の援軍]ではないはずです。
仮に米沢藩でも抗戦派もいたでしょうから、
義勇兵を集める事もできたかもしれません。
また仙台藩で援軍が求められるならば、
それによって君命に報いる事もできたはず。
※勿論仙台藩でも断られたでしょう・・。
堀の潔さには美しさがありますが、
だからといって援軍を断った米沢藩、
堀のように自害しなかった吉村、
それぞれ事情も思惑もあるわけで、
それを責めるのは誰にも出来ません。
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会津藩は間者を忍びこませていました。