山形県東田川郡 庄内藩清川関所跡

庄内藩の藩境には五つの関所がありましたが、
清川口の関所は最上川の往来もあることから、
川口番所とも呼ばれており、
その往来が最も多かったとされています。 


芭蕉上陸之地」。
松尾芭蕉奥の細道で最上川を下り、
この清川で上陸して出羽三山に向かいました。


川口番所」。
復元された川口番所
観光情報コーナーや展示スペース、
食事処などが設置されています。


清川関所の門」。
これも復元されたもの。
門があると関所らしくなりますね。


船見番所」。
内陸向け諸荷物の抜荷を監視する船見番所
番所といっても物見櫓のようなもので、
川を進む舟を見張って怪しい舟を見つけたら、
役人が舟を出して該当舟を止めたのでしょう。

秋田戦争の初戦はこの清川で行われ、
庄内藩が新政府軍を撃退しています。

御殿林」。
享保年間に防風林として整備された杉林。
清川は参勤交代で藩主が休憩や宿泊をする為、
御殿が置かれていた為にその名が付きました。
庄内藩はこの御殿林を中心に布陣し、
対岸の新政府軍を迎え撃っています。


清川村砲戦之図(現地案内板より)」。
4月24日早朝、
新政府軍は対岸の腹巻岩を占領。
腹巻岩山上より清川村に砲撃を開始します。
主将松平甚三郎以下庄内藩兵は、
御殿林を中心に布陣して応戦しますが、
新政府軍は山を下りて立谷沢川を渡河。
清川村南方の山に登って挟撃すると、
水野弥兵衛隊の数名が撃たれて倒れました。
この敵を背後から撃たんと朝比奈長十郎
平林甚五兵衛の二隊が南山を攻撃すると、
新政府は少し動揺します。
この時、機転を利かせた狩川農兵が、
背後の谷の山上に幔幕を張り、
旗を振ってが鬨の声を上げると、
新政府は敵の援軍が来たと思って退き、
川を渡って退却しました。
この戦闘で庄内藩は戦死13名、負傷18名、
新政府軍は戦死12名、負傷50余名を出し、
庄内藩は新政府軍を撃退はしたものの、
引き分けに近いものとなっています。

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