京都府京都市 清水寺

京都といえば清水寺
清水寺はそれくらい有名な観光地で、
世界遺産として世界的にも知られています。
僕が清水寺に来たのは20年ぶりくらいか?
その時は恐ろしい程の観光客で溢れ、
とても疲れ果てた印象が残りました。

コロナ禍で観光客も疎らな清水寺。
こんな事はもう2度とないかもしれませんね。


仁王門(左)」「西門(右)」。
境内入口に建つ朱塗りの2つの門。
仁王門は清水寺の正門にあたる楼門で、
応仁の乱で焼失した後に再建されたもの。
仁王門をくぐって右側にあるのが西門で、
寛永6年(1629)の大火で焼失していますが、
同8年に3代将軍徳川家光が再建しました。
西門のうしろには「三重塔」もあり、
こちらも同9年に再建されたもの。
3つとも国指定重要文化財

随求堂経堂を過ぎ、
経堂と開山堂の間を行くと北総門があり、
その門をくぐると正面に3つの碑が見えます。

贈正三位西郷隆盛公記念碑(右)」、
月照句碑(中央)」「信海句碑(左)」。
西郷隆盛の詩碑、勤皇僧月照信海の歌碑。
月照は清水寺の本坊成就院の住職で、
尊皇攘夷派の僧侶として京都で活動し、
幕府より危険人物と目されていました。
安政の大獄が起こると京都を離れ、
薩摩藩に庇護を求めますが、
藩政府はこれを拒否して日向送りとした為、
※日向送り=国境で殺害の隠語。
西郷と錦江湾に入水自殺して死亡します。
※西郷は助けられて生存。

西郷の歌碑は月照の17回忌に詠われたもの。
 相約投淵 無後先
 豈圖波上 再生縁
 回頭十有餘年夢
 空隔幽明哭墓前

 ※後先無くなり互いに約して淵に飛び込む
  何故かの縁で自分だけ再生してしまう
  思えば十余年の夢のよう
  虚しくこの世とあの世を分け墓前で嘆く


月照の歌碑は辞世。
 大君の為には何か惜しからん
 薩摩の迫門に身は沈むとも

信海の歌碑も辞世。
 西の海東の空と変われども
 こころはおなじ君が代のため

信海は月照の実弟。
兄の死後に成就院の住職となっていましたが、
攘夷祈願を行ったとして幕府に捕らえられ、
江戸に送られて獄死しています。

この3つの碑の右側にも碑があります。

贈従五位近藤正慎之碑」。
成就院の寺侍近藤正慎の顕彰碑。
月照の尊王攘夷活動を支援し、
安政の大獄で月照の行方をくらますと、
幕府は近藤を捕られて六角獄舎に送られました。
拷問されて月照の行方を聞かれますが、
何をされても決して自白する事は無く、
舌を噛み切って壮絶な最期を遂げています。
俳優の近藤正臣はその曾孫という。


忠僕重助碑」。
大槻重助は若い頃より従僕として月照に仕え、
月照は重助の忠実素朴な人柄を愛し、
常に重助を傍に置いていたという。
月照が薩摩に逃れると重助もこれに同行。
西郷と共に月照が入水すると帰京し、
捕らえられて六角獄舎に半年収監されました。
その後は30年以上月照の墓守をして過ごし、
明治26年に死去。
この碑は重助の8回忌に建立されたもの。


成就院」。
清水寺は応仁の乱の兵火で焼失しますが、
願阿の勧進活動によって再興されました。
この成就院はその願阿の宿房だったもので、
清水寺の本坊となっています。
現在の建物は寛永16年(1639)の再建で、
後水尾天皇の中宮東福門院和子の寄進。
月照や信海はここの住職でした。

月照、信海の墓も清水寺にあるようですが、
非公開のようです。
せっかくなので普通に観光して帰ります。

清水の舞台」。
斜面にせり出すようにして建てられた舞台は、
文字通り舞台として利用されたもので、
本尊の観世音菩薩雅楽歌舞伎など、
芸能奉納する場所であったようです。
清水の舞台から飛び降りるつもりで」と、
物事の決断の例えとして用いられますが、
実際に舞台から飛び降りた人は234人!
中には2度も飛んだ強者の女性もいたという。
奥に見えるのは奥の院


本堂」。
先程の清水の舞台のある本堂。
奥の院からの眺めです。
城の天守もそうですが登ってみるより、
遠くから眺める方が良いですね。
奥の院は今年の漢字の発表の場でもあります。


音羽の瀧」。
清水寺の起源とされ寺名の由来にもなった滝。
3筋に分かれて落ちる清水は、
古来より「金色水」「延命水」と呼ばれ、
清めの水として尊ばれたという。
昔来た際は観光客が列を成していましたが、
人の写っていない音羽の瀧を写せるとは、
思ってもみませんでしたね。


忠僕茶屋」。
上記の月照の従僕大槻重助が開いた茶屋で、
重助は六角獄舎を出獄した後、
一時郷里に帰っていましたが、
月照を慕う気持ちを抑えられずに戻り、
妻を娶って境内で茶屋を営みながら、
月照の墓守をして暮らしました。
茶屋は三重塔横の藤棚あたりにありましたが、
十一重石塔前の広場に移転しています。
今も重助の子孫が経営しているようで、
現在は4代目になるという。

他に近藤正慎の子孫が経営する舌切茶屋も、
アテルイ・モレの碑の近くにありますが、
どちらもコロナ禍で休業中でした。
いつかコロナが収束した後に、
家族を連れて甘味でも食べたいものです。

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