池田屋事件の残党の捜索を行う新選組は、
料亭明保野亭に浪士潜伏の情報を得ました。
元治元年6月10日。
新選組副長助勤武田観柳斎以下15名と、
応援の会津藩兵20名が出動。
明保野亭を取り囲んで中に踏み込むと、
座敷にいた武士が逃げようとしたため、
会津藩士柴司がこれを追いかけ、
庭に追い詰めて背後から手槍で腰を突くと、
相手が土佐藩士麻田時太郎と名乗った為、
捕縛して土佐藩邸に確認を取り、
麻田は土佐藩邸に引き取られました。
会津藩は柴に事情聴取を行い、
その行為が正当な職務遂行であった為、
お咎めなしと裁決され、
土佐藩邸に見舞の使者と医師を送りました。
しかし翌日、
麻田が後ろ傷を負っていた事が発覚し、
土佐藩は麻田を士道不覚悟と切腹させます。
これに藩士の一部が不公平であると反発し、
会津藩や新選組に報復を主張。
両藩の中が険悪な状況に陥りますが、
会津藩はお咎めなしと裁決された以上、
柴を罰する事が出来なかった為、
藩主松平容保も事態収拾に苦慮。
柴は自分の為にこの状況となった事を悩み、
兄に相談して自主的に切腹することで、
事態の収拾を図ることになります。
「明保野亭」。
産寧坂の途中にある料亭跡。
土産物店とレストランになっていましたが、
現在は一時休業中のようです。
当時は今より北東にあったとのことですが、
坂なので位置は変えれないような気がする。
建物が少し北東にあったって事かな?
土佐藩が士道不覚悟の裁定をしたのは勝手。
不公平だと言われる筋合いはありません。
そもそも逃げたのが悪いんだし、
逃げたのは何かやましい事があったから?
士道不覚悟を問われたわけなんで、
反発そのものが言いがかりですね。
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事態を収拾した柴の墓もあります。
・京都府京都市 池田屋跡
新選組の名を高めた池田屋事件の跡地。