内野宿は長崎街道筑前六宿のひとつですが、
街道筋が国道から外れてしまった為か、
江戸時代そのままに道が残っており、
往時の宿場の面影を留めています。
飯塚市内野周辺。緑の線が街道筋で、
青の線は大宰府への裏街道。
青でぼかした辺りが内野宿跡です。
東構口から西構口までは約600mで、
その中央辺りでT字に道が伸びていました。
北側から散策。
宿場の北側は[下町]と呼ばれていました。
「東樋口跡」。
構口は筑前六宿に設置されていた入口。
石垣に白壁の練塀が造られていましたが、
その殆どが失われており、
この内野宿の樋口も石垣が残るのみです。
「若松屋(旅籠)」跡。
東構口跡を入ってすぐの空き地。
旅籠若松屋のあった場所です。
「松屋(酒屋)」跡。
酒造業を営んだ松屋の母屋。
江戸後期の建築とのこと。
松浦川という酒を造っていたようで、
昭和初期まで営業していたという。
「薩摩屋(脇本陣 中の茶屋)」跡。
中の茶屋(脇本陣)を務めた薩摩屋の跡地。
JAの建物のようですが廃止されている様子。
「内野宿全景図」。
JAの建物に掲示されている手書きの全景図。
このような地図は意外にありがたい。
「三ッ辻」。
御茶屋及び大宰府へ向かう小路の辻。
この三叉路には人馬継所などがありました。
とりあえずは直進して西構口を目指します。
三叉路より南側は[上町]と呼ばれました。
「肥前屋(旅籠)」跡。
現存する旅籠肥前屋の建物で、
現在は内野宿展示館となっています。
残念ながらコロナ禍で休館中。
「小倉屋(質屋)」跡。
質屋小倉屋の建物。
明治初期の建築とのこと。
「長崎屋(脇本陣 下の茶屋)」跡。
下の茶屋(脇本陣)を務めた長崎屋の建物。
整備されて休憩施設になっていますが、
こちらもコロナ禍で休館中でした。
「大黒屋(旅籠)」跡。
こちらは旅籠大黒屋の建物で、
現在は民家となっているようです。
吉田松陰は九州遊学の際、
往路復路共に内野宿に宿泊してますが、
どこに泊まったかは記されていません。
もしかしたらここに泊まったかも?
「西構口跡」。
西構口は長崎側の入口。
写真中央の石垣は遺構のようです。
宿場中央まで戻って三ッ辻を西側へ。
ここからは古い家屋はありません。
「小路」。
御茶屋への道は小路と呼ばれましたが、
その先は大宰府へ繋がっていた為、
スダワラ(菅原)越やサイフ(宰府)道と呼ばれ、
大宰府詣に使用されていたそうですが、
現在は行けなくなっているとのこと。
「大イチョウ」。
樹齢400年の大銀杏。
元々は雌雄一対の夫婦銀杏でしたが、
昭和10年頃に田んぼが日陰になる為に、
雌の方は伐採されてしまったという。
絵図にもこの大銀杏が描かれています。
「内野宿・御茶屋(本陣)跡」。
現在は耕地となっている模様。
建物の一部は馬敷の西光寺に移築され、
庫裏として利用されているようです。
諸大名の参勤交代に利用された他、
福岡藩歴代藩主が猪狩りに訪れて、
周辺の野山で狩りを楽しんだという。
また宿泊した大名はお忍びで出掛けて、
大宰府詣に行っていたようです。
内野宿の先には冷水峠が待ち構えており、
峠越えを控えた旅人の多くが草鞋を脱ぎ、
宿場は大変に賑わっていたという。
元々は黒田節で知られる母里太兵衛が、
主君黒田長政の命で代官として赴任し、
宿場を整備したとされています。
その後に母里が大隈城主に任命された為、
代わって内野太郎左衛門が代官を拝命。
母里から引き継いで宿場を整備しており、
これが内野宿の名の由来となりました。
■長崎街道の宿場町
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長崎街道4番目の宿場町。
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吉田松陰は往路遍路共に内野宿に宿泊。