山家宿は長崎街道の筑前六宿のひとつで、
薩摩街道の起点にもなっていました。
筑紫野市山家周辺。
緑の線が長崎街道で紫の線が薩摩街道。
水色の線が日田街道です。
地図左下の交差が山家の追分で、
青でぼかした辺りが山家宿跡。
北側から散策。
「山家宿東構口跡」。
構口は筑前六宿に設置されていた入口で、
石垣に白壁の練塀が造られており、
始点の小倉側を東構口と呼び、
終点の長崎側を西構口と呼んでいました。
「山家宿大庄屋役宅跡」。
山家村大庄屋近藤弥九郎の役宅跡。
各村への年貢割り当てや納入、
土木工事や参勤交代の人馬役等、
広範囲に村政に関わっていたようです。
「山家宿問屋跡」。
人馬の継立業務が行われた問屋の跡。
街道筋は県道77号となっており、
車が絶えず通行していました。
「薩摩屋跡(下茶屋跡)」。
筑前六宿お馴染みの薩摩屋の跡で、
現在は横浜金属商事㈱福岡支店の敷地。
街道はここから路地に入ります。
「山家宿郡屋跡」。
郡内の村役人達が郡奉行に通達を受けたり、
普請等の打ち合わせが行われた施設で、
郡屋の建物は郡屋守が管理していたという。
写真は現存するその郡屋守役宅跡。
「郡屋建物跡」。
本体の郡屋建物は取り壊されており、
何かのプレハブ小屋が建てられていました。
街道沿いに戻って御茶屋跡へ。
路地はいびつな五差路に突き当ります。
※長崎屋の跡地もあったのですが、
写真を撮り忘れました。
「御茶屋(本陣)跡」。
福岡藩営の本陣である御茶屋の跡。
この場所から奥が御茶屋の敷地でした。
五差路から南西方向に街道は続きますが、
すぐに宿場は終了します。
「西構口跡」。
状態良く現存する唯一の構口跡。
なるほどこのようになっていた訳ですね。
これはかなり貴重な史跡です。
薩摩街道は山家宿を起点としていますので、
上記地図ではここからスタートとしました。
「謝人贈魚」。
女流漢詩人原采蘋の漢詩碑。
原采蘋は江馬細香、梁川紅蘭と並び、
幕末の女流漢詩人の代表的人物。
男装、帯刀の姿で各地を遊歴し、
多くの漢詩を生み出しました。
嘉永元年に母の為に山家宿に移り住み、
私塾を開いて約10年間暮らしています、
母の死後は再び旅に出かけますが、
萩の土屋蕭海を訪ねていますが、
病気となって客死してしました。
彼女の塾は西構口の東側にあったようです。
再び五差路に戻って西側の道へ。
代官所や下代の屋敷が集まっていました。
「山家宿下代屋敷跡」。
下代を務めた高嶋家の屋敷跡。
下代とは代官所配下の宿場役人の事で、
代官代理として庶務を指揮していました。
坂道に4軒の下代屋敷が並んでいたようで、
交代や連携で業務にあたっていたという。
建物は平成6年まで現存していましたが、
腐食が著しく学術調査後に解体されました。
「下代屋敷もやい井戸」。
下代家族が共同で使用していた井戸らしい。
「山家宿代官所跡」。
福岡藩が設置した代官所の跡地。
代官は宿場を司る司法、行政の長で、
初代代官は黒田二十四騎の桐山丹波が務め、
宿場整備や令水峠の開削に活躍したという。
その桐山丹波の墓があるということで、
更に道を上っていきます。
「桐山丹波守(孫兵衛)墓所」。
案内標識どおりに行くと簡単に発見。
桐山丹波は黒田職隆からの大譜代の家臣で、
次代の黒田考高、次々代の黒田長政に仕え、
数々の戦に参加して戦功を挙げた他、
母里太兵衛と共に冷水峠を開通させました。
山家宿を出ると山家追分に至り、
長崎街道、薩摩街道、日田往還に分岐。
長崎街道は六宿最後の原田宿へ、
薩摩街道は松崎宿へ向かいます。
■長崎街道の宿場町
■薩摩街道の宿場町
■関連記事■
・福岡県北九州市 木屋瀬宿跡
長崎街道2番目の宿場町。
・福岡県飯塚市 飯塚宿跡
長崎街道3番目の宿場町。
・福岡県飯塚市 内野宿跡
長崎街道4番目の宿場町。