長崎県長崎市 日見宿跡

日見宿長崎街道最後の宿場で、
街道最後で最大の難所日見峠の手前にあり、
旅人は日見宿で一息ついた後、
日見峠を越えて長崎へ入ったとされます。

その手前の矢上宿との距離は僅か2kmで、
宿泊する旅人は少なかったようですが、
峠越えの為に準備を整えたり、
峠越えを終えて休憩したようです。


長崎市宿町周辺。緑の線が街道筋で、
青でぼかした辺りが日見宿跡。

南西側より散策。

日見宿跡」。
日見川を中心に宿場となっていたようで、
南西側より下り坂となって川岸に至り、
そこから腹切坂まで平坦になっています。
古い家屋は残っていない模様。


日見継ぎ場跡」。
坂の途中にある人馬の中継所跡。
ここには大きな藤棚があったようで、
その下にバンコと呼ばれた腰掛が設置され、
旅人の休み処となっていたようです。


三国屋橋」。
かつて日見宿に三国屋という酒屋があり、
状持ち(飛脚)も勤めていましたが、
大雨で日見川が氾濫した際、
主人の五郎七が江戸からの書状を頭に巻き、
濁流を泳いで向こう岸に渡り、
日見峠を越えて長崎代官所に届けたという。
代官はこの五郎七の行為を称え、
何か褒美を与えようというと、
橋が無い為に難儀しているので、
日見川に橋を架けて欲しいと答えました。
代官はこの願いを叶えて石橋を築き、
五郎七の屋号に因み三国屋橋と命名。
以来、旅人や土地の者が利用しましたが、
昭和44年に老朽化によって架け替えられ、
現在の鉄筋コンクリート製となっています。


日見の宿跡」碑。
県道34号線との交差する場所にある跡碑。
この辺りが宿場の境界と思われます。

県道を越えると街道は腹切坂に。

腹切坂」。
この物騒な坂の名前の由来は諸説あります。
熊本藩の家臣某が熊本に帰郷の際、
平家の末裔を称する棒術使いの農民に、
試合を挑んで敗れた為、
武士の面目を失い切腹した坂とか、
逆にその農民が熊本藩の家臣某に敗れ、
無念の末に腹を切ったとか。
またフェートン号事件の際に、
事件に関係した佐賀藩士が長崎からの帰路、
佐賀藩領に入ったこの坂で自刃したとも。
何れも確証はないようですが、
実は山の中腹に道を切り開いた為、
腹切坂と呼ばれたという。

腹切坂は現在中腹で日見バイパスが横切り、
文字通り腹切となって途切れていますが、
本来はさらに上まで続いていました。
坂の途中に供養塔が建てられていましたが、
開発の為に移されており、
現在はバイパス脇に設置されています。

腹切坂供養塔」。
日見バイパス脇に並ぶ供養塔群。
左より
建設省の了解を得て
 長崎街道より
 此の地に移設する
」、
大乗妙典一字一石書写正」、
大乗妙典六十六部日本廻国供養」、
白禅道由居士」、
腹切坂」碑。
中央寄りの3つの碑のうち、
大乗妙典の2基は供養塔ですが、
右側の白禅道由居士はお墓のようで、
俗名は吉村忠衛門尉藤原重道とのこと。
彼が熊本藩の家臣某でしょうか?

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