桑名宿は東海道の42番目の宿場。
桑名藩の城下町に位置しており、
東隣りの宮宿とは七里の渡しで繋がれ、
伊勢詣の玄関口になっていました。
「歌川広重 東海道五拾三次之内 桑名」。
七里の渡しから桑名渡船場に入る様子。
右に桑名城が配されています。
「七里の渡し跡」。
七里の渡しの渡船場があった場所。
伊勢国一の鳥居が設置されており、
参宮道の出発点となっています。
この鳥居は元々宇治橋外側の大鳥居で、
内宮の式年遷宮の際に移築されており、
20年ごとに建て替えられているとのこと。
街道は七里の渡しから南へ向かいますが、
西側は脇往還の佐屋街道となっており、
そちらに本陣跡と脇本陣跡があります。
「脇本陣駿河屋跡」。
脇本陣を務めた駿河屋源七家跡。
現在は料理旅館山月となっています。
桑名宿には脇本陣が4軒あったようで、
そのうちで最も格式が高かったという。
「本陣大塚家跡」。
本陣を務めた大塚与六郎家跡。
桑名宿一の格式を持っていたようで、
明治天皇の東京行幸でも使用されました。
裏手から直接乗船が出来たとのこと。
現在は料理旅館船津屋となっています。
七里の渡しまで戻って東海道へ。
「桑名宿の街並み」。
街道筋の家々は更新されて遺構は皆無。
「本陣丹羽家跡」。
もうひとつの本陣丹羽善九右衛門家跡。
伊能忠敬も宿泊したようです。
現在は民家。
「脇本陣跡」。
現地の桑名宿説明板によると、
脇本陣のあった場所のようです。
桑名宿には脇本陣は4軒あるので、
そのうちの誰かはよくわかりません。
上記の駿河屋源七の他、
脇本陣を務めたのは服部作左衛門家、
萬屋彦左衛門家、佐渡屋彦八家。
この3家のどれかでしょう。
「通り井跡」。
桑名では地下水に海水が混じった為、
町屋川から水を引いて水道を設置し、
町内の主要道路の地下に筒を埋めて、
道路中央の所々に正方形の升を開け、
一般庶民が利用していたようです。
これを通り井と呼んでいました。
桑名宿と宮宿の間は東海道唯一の海路。
満潮時の航路が約7里だったので、
七里の渡しの呼ばれていましたが、
海路ゆえに天候等に左右される為、
宿泊するケースの多い宿場となって、
非常に繁盛した宿場であったという。
しかし宮宿から桑名宿への航路の他、
四日市宿への航路も発展してくると、
※十里の渡し。
次第に客足が少なくなってしまいます。
これに困った桑名宿は道中奉行へ訴え、
公用及び諸大名の通行には、
七里の渡しの使用が義務付けられました。
とはいえ一般の旅人は十里の渡しを利用し、
桑名宿を飛び越えていたようで、
これについても訴えたようですが、
これを取り締まるのは難しかったようです。
■東海道の宿場町
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桑名宿は桑名藩の城下町でもありました。
・三重県四日市市 四日市宿跡
東海道の43番目の宿場跡。
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東海道の44番目の宿場町。