天授庵にある横井小楠の墓所。
小楠は熊本藩士横井時直の次男に生まれ、
藩校時習館に学びました。
江戸に遊学して全国の諸士と交わりますが、
他藩士と喧嘩した事を咎められ、
帰国を命じられ逼塞処分となっており、
この間に朱子学を研究。
自宅で私塾小楠堂を開き、
これが知られるようになると、
全国より諸士が訪問するようになります。
安政4年には福井藩の招かれ、
賓師として藩校明道館で講義。
弟や母の死去により熊本に帰郷しますが、
その度に福井に呼び戻されました。
4度目の招集では松平春嶽に助言者となり、
幕政改革に関わって国是七条を起草。
刺客に襲われて逃げた際には、
熊本藩に指導不覚悟を問われてますが、
福井藩の擁護によって切腹は免れ、
知行召上、士席差放の処分となります。
慶応4年には新政府に招集されており、
士籍を回復されて上京し、
新政府の参与となっています。
「沼山横井先生墓(右)」、
「横井家之墓(中央)」、
「横井先生配矢嶋氏墓(左)」。
横井小楠の墓と横井家の累代墓、
小楠の後妻矢嶋津世子の墓。
小楠の墓は沼山となっていますが、
これは熊本沼山津在住時の号で、
当初は肥後故臣参興横井平四郎墓と刻まれ、
墓石は高さ1尺程度のものでしたが、
門弟竹崎茶堂が墓参した際に改めたという。
明治2年1月5日の参内帰途、
十津川郷士ら6人が小楠を襲い、
※襲撃犯は上田立夫、中井刀禰尾、
津下四郎左衛門、前岡力雄、
柳田直蔵、鹿島又之允の6人。
護衛が応戦するも殺害されています。
襲撃理由は小楠が開国を進め、
日本をキリスト教化しようとしたから。
これは事実無根だったようで、
こういう暗殺事件の犯人の動機は、
見当違いだったというケースは多い。
視野が狭く無駄に行動力がある場合、
このような悲劇を起すのは、
古今変わらないようです。
■関連記事■
・福井県福井市 横井小楠寄留宅跡ほか
横井小楠の寄留宅など。
・福井県福井市 旅立ちの像
小楠と由利の銅像。
・京都府京都市 京都霊山護國神社④
霊山護國神社にある小楠の墓。