下関市中之町 引接寺/小早川隆景墓所

伊藤助太夫(久三)の墓を探し、
引接寺を訪れたのは7年前。
結局は助太夫の墓はそこには無く、
空月庵跡という別の場所にありましたが、
下関市本町 空月庵跡/本陣伊藤家墓所
江戸中期の伊藤家当主の墓や、
奈良屋入江和作の墓は見つけました。
下関市中之町 引接寺/伊藤家 入江家墓所
今回は7年ぶりに訪問し、
小早川隆景の分骨墓に参ります。


本堂」。
引接寺は小早川秀秋が養父を弔う為、
豊前国の黒田村にあった引接寺を、
現在地に移して菩提寺とした寺院。
※建立は藤堂高虎によるものとも。
朝鮮通信使一行の宿泊所にも指定され、
日清戦争後の講和条約の際は、
清国全権大使李鴻章の宿舎にもなっており、
歴史的に名高い寺院でしたが、
空襲によって本堂等の建物は焼失し、
三門鐘楼だけが残ったという。
その後の平成8年に本堂等が再建。
現在に至っています。


山門鏡天井の龍」。
空襲での焼失を免れた三門は、
長府藩9代毛利匡満の再建。
江戸末期に門前を通りかかった人が、
次々にこの龍に襲われたとされ、
ある侍がこれを退治したようで、
胴体に斬られたとされる跡が残っています。

本堂裏手の小早川隆景の分骨墓へ。

小早川隆景遺髪墓」。
五重石塔型の遺髪墓。
小早川隆景は毛利元就の三男で、
豊臣秀吉を嫌った兄吉川元春とは違い、
独立大名として秀吉に仕えており、
五大老にまで抜擢されています。
しかし毛利家を第一とした事は変わらず、
血縁の無い秀吉の義理の甥羽柴秀俊を、
秀吉が毛利家の養子にしようとすると、
既に養子としていた小早川秀包を廃嫡し、
自らが秀俊を貰ってこれを阻止。
その後に秀俊改め秀秋に家督を譲り、
隠居先の三原で死去しました。
遺骸は三原の米山寺に葬られますが、
遺言により引接寺に分骨されました。
遺言は7寺に分骨せよというもの。

秀秋は関ヶ原の戦い東軍に寝返り、
岡山に55万石を与えられますが、
僅か2年で無嫡のまま急死し、
小早川家は断絶しています。
また廃嫡された秀包は別家を立て、
関ヶ原では西軍として大津城を攻略。
しかし本戦で西軍が敗れた為に改易となり、
毛利家に戻って小早川姓を捨て、
嫡男毛利元鎮吉敷毛利家を興しています。

■関連記事■
下関市豊北町 西楽寺/毛利秀包墓所
 小早川秀包に改めた毛利秀包の墓所。
下関市豊田町 毛利元鎮墓所
 吉敷毛利家初代毛利元鎮の墓所。
山口県山口市 玄済寺/吉敷毛利家墓所
 吉敷毛利家の歴代墓所。