柳河藩初代立花宗茂の義父立花道雪。
大友家の雷神とも称される人物で、
戦では生涯無敗を誇った他、
義に篤く部下への配慮を欠かさず、
民を慈しむ希代の名将であったという。
その道雪は柳川城攻めの際に陣中で発病。
天正13年(1585)に死去しています。
遺言で甲冑を着せて高良山に埋葬し、
柳川城の方角に向けろと言ったようですが、
家督を継いでいた立花統虎(宗茂)は、
遺言に背いて領地に持ち帰り、
立花山にある養孝院に埋葬しました。
その養孝院は現在の梅岳寺。
「本堂」。
創建は元中2年(1385)とされ、
当初は神宮寺という寺号だったようですが、
道雪の義母養孝院が埋葬されて以降、
養孝院と改称されています。
道雪もここに埋葬されていますが、
宗茂は柳川に転封されて養孝院も移転。
次代立花忠茂により黄檗宗に改宗され、
養孝院は福厳寺と改称しました。
道雪と養孝院の墓はそのまま残され、
旧跡として保存されていましたが、
後に福岡藩3代黒田綱政の正室心空院は、
※心空院(呂久姫)は忠茂の娘。
そこに曹洞宗寺院を再興して梅岳寺とし、
自らの菩提寺とすると共に、
道雪ら先祖の供養を行っています。
「立花城主道雪公墳墓之址」。
道雪の墓所は本堂の裏手。
門には南京錠が架けられていますが、
門の隙間から内部は確認できます。
右から「立花道雪墓」、
「養孝院墓」「薦野増時墓」。
道雪は一般に立花道雪として知られますが、
道雪は立花姓を名乗った形跡はなく、
戸次鑑連と称していました(道雪は法名)。
立花家は豊後守護大友貞宗の三男貞載が、
立花山城を築いて立花貞載を称し、
代々大友家重臣として仕えた家柄でした。
しかし7代当主であった立花鑑載が、
毛利家に寝返った為に道雪に滅ぼされ、
後に道雪が立花の名跡を継いでいますが、
道雪は立花姓を名乗っておらず、
一人娘である誾千代がこれを相続。
その後に宗茂が婿養子に迎えられ、
立花姓を継ぐ事となります。
また雷に打たれて半身不随だったとされ、
※その際に雷を斬ったという逸話も。
家臣に手輿を担がせて行軍したという。
養孝院は道雪の父戸次親家の継室で、
大友家家臣臼杵長景の娘だったようです。
左側の薦野増時は家老だった人物で、
道雪からその才能を愛されて、
養子に迎えようとまでされた人物。
多くの戦いで武功を挙げたようで、
道雪に恩賞はなにが良いかと聞かれると、
死後は道雪の傍らに葬って欲しいと答え、
その許しを得ていました。
道雪死後は跡を継いだ宗茂に仕え、
立花家の家宰として忠義を尽くしますが、
関ヶ原の戦い後に立花家は改易。
増時は黒田如水に誘われて黒田家に仕官し、
立花家再興後も戻らずに黒田家に仕え、
約束通りに道雪の傍らに葬られています。
増時は宗茂に立花姓を許されており、
後に黒田家に黒田姓も許されたとされ、
子孫は福岡藩士立花黒田家として続きました。
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