天正12年(1584)。
龍造寺隆信を破った島津義久は、
九州全土の制覇に乗り出します。
北部の小勢力は次々と軍門に下り、
残る勢力は大友家のみ。
義久は筑前国への侵攻を開始して、
島津忠長、伊集院忠棟に命じ、
2~5万の軍勢が筑前に向かいました。
大友勢の勝尾城城主筑紫広門が寝返り、
反抗を続けるのは岩屋城の高橋紹運と、
長男で立花山城を守る戸次統虎(立花宗茂)や、
次男で宝満山城を守る高橋統増のみ。
島津勢は紹運に降伏勧告を送りますが、
これに応じずに徹底抗戦を決定。
島津勢は岩屋城に攻撃を開始します。
守る城兵は僅かに763名。
城内の女子供等の非戦闘員は既に退避し、
次男統増の守る宝満山城に避難しました。
紹運は岩屋城を死に場所と決め、
島津の大軍を何度も撃退し続けますが、
その甲斐なく多勢に無勢で落城。
紹運以下全員が討死を遂げています。
「岩屋城本丸跡」。
大宰府天満宮の門前町より三笠川を渡り、
四王子林道を登ると本丸跡入口があります。
少し登ると本丸跡に至りますが、
そこは大宰府の市街が一望出来る絶景。
中央は[嗚呼壮烈岩屋城址]の碑です。
四王子林道まで戻り、
本丸跡入口より少し登ると、
左手に高橋紹運公墓の案内板があり、
そこを下って高橋紹運の墓へ。
「高橋紹運墓(胴塚)」。
石垣が組まれて土が盛られたもので、
紹運の胴塚とされています。
現在のものは三池藩6代立花種周により、
寛政6年(1794)に整備されたもので、
周囲の石垣は福岡藩9代黒田斉隆の寄進。
紹運の長男宗茂は立花道雪の養子となり、
立花宗家を継いでいますので、
紹運の家督を継いだのは次男の統増。
この統増が後の三池藩祖立花直次で、
直次の次代立花種次が加増されて、
三池藩を立藩しています。
「岩屋城 戦歿者之碑」。
岩屋城で玉砕した城兵の慰霊碑。
幾多の戦いが繰り返された戦国時代でも、
籠城戦で全員戦死は稀であり、
大概はそうなる前に降伏となります。
しかし岩屋城兵が徹底抗戦した事により、
島津勢は多大な犠牲を払い攻勢は鈍化。
島津家の九州制覇の野望は崩れ去りました。
大宰府市の南にある筑紫野市二日市下に、
紹運の首塚とされる塚があります。
「高橋紹運首塚伝承地」。
二日市下に島津勢の本陣があったとされ、
岩屋城落城後に首実験が行われ、
その後にここに埋められたという。
三池藩では紹運とこの先祖の戦いを誇りとし、
また他家からも称賛されていたようです。
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・福岡県大牟田市 紹運寺/三池藩立花家墓所
三池藩初代藩主の墓所は紹運寺。
・福岡県大牟田市 三池藩立花家墓所①
2代から5代藩主の墓所。
・福岡県大牟田市 三池藩立花家墓所②
紹運や岩屋城戦死者の慰霊墓があります。
・福島県伊達市 耕雲寺/下手渡藩立花家墓所
下手渡にある後期藩主の墓所。
・東京都港区 青山霊園/立花種恭墓所
最期の藩主立花種恭の墓。