吉富簡一は矢原村の大庄屋でしたが、
幼馴染の井上聞多の影響により、
攘夷戦の費用を献金した他、
正義派の支援を積極的に行っています。
高杉晋作が挙兵して内訌戦が始まると、
軍資金を供出した他に自ら鴻城軍を組織。
その総督に井上を擁立しました。
「吉富簡一旧宅」。
山口市幸町にある吉富簡一の旧宅。
幕末期には吉富藤兵衛と称しており、
吉富家は名字帯刀を許された大庄屋で、
17歳で家督を継いでいたようです。
井上より3歳年下だったようで、
幼少期より親しく接しており、
その関係から高杉晋作、伊藤俊輔、
周布政之助等と知遇を得ており、
尊皇攘夷、討幕運動に協力しました。
第一次長州征伐で長州藩は窮地となり、
俗論党政権が誕生すると、
周布は罷免され吉富家に身を寄せますが、
藩は窮地に立たせた事に責任を感じ、
ここの裏庭で切腹しています。
井上も襲撃されて重傷を負い、
長州藩は俗論党政権に支配されますが、
高杉晋作によるクーデターで内訌戦に突入。
吉富は上記のように資金を援助した他、
自らも鴻城軍を組織しました。
内訌戦の後に正義派政権が樹立し、
幕長戦争に勝利して明治維新に移行。
戊辰戦争にも勝利した長州藩でしたが、
藩政改革による不満から脱隊騒動が勃発し、
木戸孝允自らこれを鎮圧します。
その際に吉富は木戸に協力し、
脱隊騒動の鎮圧に貢献。
その後は木戸に誘われ政府に出仕しますが、
辞職して先収会社大阪支店頭取となり、
明治9年の先収会社解散まで務めました。
後に山口に帰国して初代県会議長に就任し、
自由民権運動を抑えて長州閥を支え、
明治23年には衆議院議員に当選。
大正3年に死去しています。
周布は吉富家に厄介になった際、
憔悴しきった様子だったようで、
自刃も口にしていたという。
吉富は心配して刃物を隠し、
使用人を見張りに付けて周布を監視し、
早まった事をしないようにしていました。
刃物を隠された周布は絶食を開始し、
困った吉富は方々に手紙を書き、
周布に会いに来るように頼んでいます。
このように周布を思いとどまらせる為、
手を尽くした吉富でしたが、
井上が暴漢に襲われてしまい、
その見舞いと看病に吉富が出かけた際、
裏庭に出て隠し持っていた短刀で、
自刃してしまったとのことです。
■関連記事■
・山口県山口市 世外井上馨候遭難之地
井上聞多が暴漢に襲われた場所。
・山口県長門市 周布政之助墓所
長門市のある周布政之助の墓。
・山口県萩市 東光寺/四大夫十一烈士墓所
東光寺に建てられた周布の招魂墓。