朝倉八幡宮は貞観元年(859)創建とされ、
詳しい経緯はわかりませんが、
宇佐八幡宮より勧請されたようです。
大内家14代大内政弘の頃(室町後期)に、
今八幡宮と合併したようですが、
江戸中期の享保10年(1725)に再興し、
現在地に社殿が建立されました。
「朝倉八幡宮」。
上記したように今八幡宮と合併され、
後に分かれて再興した珍しい神社。
本来は合併されると同一のものとなり、
離す事は普通は出来ない筈ですが、
どういう経緯でそうなったか不明。
神様を人の都合で分けたり出来ないので、
たぶん今八幡宮への合併というより、
大内家が両社を庇護していたのを、
今八幡宮のみに変更した為に廃れ、
後に再興されたというのが自然かと。
「拝殿」。
古い社殿ですが建立時期は不明。
社宝として大内家の寄進物もあるようで、
やはり合併以降も存在していたようです。
隣には湯田温泉神社が鎮座しており、
湯田温泉の神様が祀られている模様。
文久3年に八月十八日の政変が起こり、
長州藩は京都から追放されますが、
同じく三条実美ら7人の公卿も、
長州へ落ち延びました。
七卿は三田尻の招賢閣に滞在しますが、
そのうちの一人澤宣嘉は生野へ向かい、
翌年の元治元年に六卿は山口に移転。
4月には錦小路頼徳が病死し、
2人減って五卿となっています。
その際は三条のみ湯田に滞在し、
他の四卿は真光院を在所としました。
彼らは朝倉八幡宮に度々参拝したようで、
ここで攘夷祈願を行っています。
「四卿歌碑」。
三条西季知、三条実美、東久世通禧、
壬生基修の4人が和歌を奉納しており、
その和歌が歌碑に刻まれています。
朝倉八幡宮にまうでて
ゆうたすきかくる祈りはうけよ神
わたくしならぬ願なりけり/季知
ゆうたすきかけて祈るも一すぢに
わがまごころをつくすなりけり/実美
皇の御国やすうと朝倉の
神よあさゆうまもりてしかな/通禧
願ふぞよ世のうき雲を払うには
ただ神風のほかなかりけり/基修
四条隆謌は和歌を奉納していませんが、
どうしたのかわかりません。
奉納した日は具合でも悪かったのかな?
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