参勤交代や領内巡視の休泊や、
迎賓の場として使用された御茶屋。
長州藩領各地に建設されていましたが、
現在は三田尻のもののみが現存しており、
修復保存されて一般公開されています。
「英雲莊(三田尻御茶屋跡)」。
昭和14年に防府市に寄付されますが、
その際に英雲荘と名付けられました。
7代藩主毛利重就は隠居後に、
三田尻御茶屋を大幅に改修しており、
晩年の6年間を過ごしています。
また重就は防府を発展させた事もあり、
寄附された際に重就の法名に因み、
※英雲院殿祐山如靖大居士。
英雲荘と命名されたとのこと。
「玄関棟」。
英雲荘の本館は3つに区分されており、
江戸時代に建てられた大観楼棟、
明治時代に増築された奥座敷棟、
大正時代の玄関棟と台所棟となっています。
玄関棟より入って大観楼棟へ。
「御書院」。
藩主の謁見等が行われた御書院ノ間。
七卿が三田尻に入った際には、
はじめ大観楼に滞在していたようで、
後に北側に建てられた招賢閣に移り、
そこで志士らの訪問を受けました。
※招賢閣は非現存。
「西ノ間及び東ノ間(2階)」。
大観楼棟は唯一2階建てとなっており、
かつては海も見えたとされています。
大観楼の名も2階からの展望に由来し、
北宋の政治家范仲淹の岳陽楼記より、
眼下の海を中華の洞庭湖をに見立てて、
その名が付けられました。
大観楼棟から奥座敷棟へ。
「奥座敷」。
明治2年に御茶屋が廃止されており、
建物の多くが売却されましたが、
大観楼棟は残されたようで、
明治3年に毛利元昭が保養の為に滞在。
明治31年には毛利宗家の邸宅となり、
私的空間として奥座敷棟が造設され、
当主や家族が居住しています。
襖や引手金具、照明器具の意匠は、
華やかで非常に可愛らしい。
多々良の毛利邸が完成する大正5年まで、
ここで暮らしていたとのこと。
「庭園」。
江戸中期作庭の池泉回遊式庭園。
令和元年に修復復元されたようで、
池に水が流されています。
庭園から各棟を撮影。
左が奥座敷、中央が大観楼、
右側が玄関棟。
これでも大規模な建物ですが、
最盛期はこの3倍以上だったとか。
「花月楼」。
庭園の一角にある茶室。
現在のものは周防国分寺にあったものを、
ここに移築したもののようで、
江戸期にここに建っていたものは
萩の松陰神社に移築されています。
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