徳川十六神将末裔の幕末②

前回の記事の続き。
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徳川十六将図」。

高木性順(高木主水正家)
(→丹南藩1万石)
本能寺の変後に徳川家康に仕えた高木性順は、
生涯に四十五ヵ所の疵を受けたとされ、
数々の戦場でその武勇が伝えられています。
高木正次の代に大名となりますが、
江戸中期以降の財政は悪化し、
幕末期に天領の一揆鎮圧を命じられた為、
多額の借金を抱えて維新を迎えました。

鳥居忠広(忠弘系鳥居家)
(→小田原大久保家家臣?)
三方ヶ原の戦いで家康を諌めますが、
聞き入れられずに徳川軍は武田信玄に惨敗。
忠広は殿を勤めて家康を逃がし討死。
子孫は小田原藩士となったようですが、
詳細は不明。

服部半蔵正成(大服部家)
(→桑名藩家老)
伊賀衆の棟梁服部半蔵正成は、
家康から絶大な信頼を得ていますが、
子の服部正就服部正重は不手際で改易。
半蔵の名を継いだ正重は浪人となり、
桑名藩に迎えられて家老となります。
幕末期の12代目服部半蔵正義は、
桑名藩兵を率いて鳥羽伏見の戦いに参戦。
藩主松平定敬と共に柏崎へ逃れ、
新政府軍と抗戦します。
戦後は桑名藩大参事兼軍務都督に就任。
廃藩置県後も各地の区長となりますが、
西南戦争が始まると募兵に応じ、
新撰旅団第四大隊第四中隊長となりました。

大久保忠佐
(→断絶)
兄と共に戦功を挙げた大久保忠佐は、
沼津藩2万石の大名となりましたが、
嫡子に先立たれ断絶しています。

渡辺守綱(渡辺半蔵家)
(→尾張藩家老)
足軽頭渡辺守綱は「槍半蔵」と恐れられ、
徳川軍の数々の戦で先鋒を勤めました。
尾張藩の御附家老として代々続き、
幕末期の当主渡辺綱倫は、
禁門の変で御所南門を守備。
尾張藩の銃隊100人を率いますが、
長州勢に撃破されています。
その責任を取って自刃してしまった為、
幼い長男渡辺綱聡が跡を継ぎました。

米津常春(米津宗家)
(→断絶)
米津家は古くからの譜代家臣で、
数多くのの戦で戦功を挙げており、
槍を持っての奮戦ぶりが伝えられますが、
以後の消息は不明で謎多き武将です。
息子米津正勝堺奉行を任じられますが、
不手際で解任され阿波国に配流されました。
正勝は大久保長安と親しかったため、
大久保長安事件に連座する形で切腹。
常春の弟政信の系統は長男が旗本、
三男は久喜藩主として続いています。

蜂屋貞次
(→断絶)
松平家譜代家臣として戦功を挙げますが、
本多忠勝と先陣を争っていた際、
流れ弾が不運にも当って討死しています。

内藤正成
(→大身旗本)
強弓の武功者として知られる内藤正成は、
その射力で近隣の武将に恐れられました。
代々大身旗本として幕末まで続きますが、
幕末期の14代内藤正從が何をしたか不明。

とりあえず16人の子孫をみてみましたが、
譜代筆頭の井伊と四天王筆頭の酒井の子孫は、
先祖に負けぬ活躍を見せております。
服部半蔵も陪臣にはなったののの、
戊辰を戦い抜いて面目を保っていますが、
残念なのは榊原と本多・・・。
やはり転封というのは悪政でしたね。

基本的に徳川幕府の政策として、
転封や参勤で外様大名の力を削ぐ事が、
求められていた筈ですが、
力を削がれたのは譜代大名でした。

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徳川十六神将末裔の幕末②」への3件のフィードバック

  1. kii 投稿作成者

    >すげー様
    ご訪問ありがとうございます。
    大河「どうする家康」からご興味持たれたのでしょうか?
    他にも色々とありますのでどうぞまたいらっしゃって下さい。

    返信

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