大分県大分市 佐賀関/海舟龍馬宿泊地

長州藩の攘夷決行に対抗する為、
四ヶ国艦隊は下関への攻撃を決定しますが、
勝海舟はこれを制止する為に長崎へ向かい、
これに坂本龍馬も同行しています。

神戸から第二長崎丸に乗り込んだ一行は、
文久4年2月15日に佐賀関に到着。
そこから陸路を長崎に向かいました。
佐賀関は熊本藩飛地で四国の玄関口であり、
当時は大変な賑わいであったとされます。
幕府の使節として上陸した勝ら一行は、
浦を挙げてもてなされています。


海舟・龍馬上陸の地」。
佐賀関の上浦に上陸地の説明板があります。
当時の海岸線は埋め立てられており、
現在の海岸線よりは少し内側ですが、
このあたりが上陸地であったらしい。

上陸した一行は佐賀関で一泊するのですが、
その際の様子が徳応寺に記録されています。


佐賀関の地図。
上浦(北浦)と下浦(南浦)を結ぶ通は、
関さば関あじ通り」と呼ばれ、
勝らの宿泊した痕跡が残っており、
これを上浦から順に行ってみます。


高田屋」跡。
勝らの接待で「御給仕人」を努めた店の跡。
このような案内板がたくさんあります。


小松屋」跡。
一行が分宿した旅宿。
勝ら主要メンバーは徳応寺に宿泊しており、
ここに分宿したのは下っ端の役人でしょう。


高札場跡」。
通りの中央付近に高札場があったようです。
通常のお触書は7枚程度ですが、
多い時には12枚も張られていたという。


徳応寺」。
高札場跡の向いは徳応寺。
ここに勝や龍馬が宿泊しています。


徳応寺本堂」。
改修中のようですね。
この寺に勝らが宿泊したようで、
記録にもその時の様子が残されています。


讃岐屋」跡。
一行の接待の際に、
亭主役」を務めた讃岐屋のあった場所。


土佐屋」跡。
接待の際になにかした記録はありませんが、
当時の状態で残っている家屋。
龍馬は土佐屋の屋号を見たでしょうから、
何らかは思ったのではないでしょうか?


正念寺」。
土佐屋跡の隣に階段があり、
そこから正念寺に登れます。
古い石階段ですので当時のものでしょう。


正念寺本堂」。
正念寺も一行の分宿所となっており、
偉い順に、
「徳応寺」→「正念寺」→旅宿と、
分かれていたようです。
奥の屋根は徳応寺。すぐ隣でした。


池田屋」跡。
一行の接待の際に「御料理人」を努めた店。


今津屋」跡。
一行の接待の際に「御給仕人」を務めた店。

紹介した案内板以外にも、
たくさんの屋号が書かれた案内板があり、
浦は相当栄えたようですが、
一行の接待に多くの店が参加しており、
浦を挙げて接待した事がうかがえます。

一行は佐賀関で一泊した後、
佐賀関街道を陸路で進み、
肥後街道から長崎に向かいました。

■関連記事■
長崎県島原市 龍馬上陸の地
 一行は熊本から船で島原に渡りました。
長崎県平戸市 元回船問屋明石屋永山邸
 秘密会合があったとされる場所。
熊本県天草郡 天草代官所跡①
 勝は演習で2度も富岡を訪れています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です