大阪府岸和田市 岸和田城

岸和田は僕がお世話になった師匠が住んでいた場所で、
何度も南海電車で来ていました。
とはいえ、駅と師匠の家のある五軒屋町の往復のみで、
城があることは知ってはいましたが、
一度も行ってみた事はありません。

もう20年位も前の事ですが、あまり変わってない様子。
すでに師匠も故人となっており、
師匠宅はギャラリーとなっている様子。
師匠は朝ドラ「カーネーション」のモデルになった人物で、
あまり出来の良い弟子ではありませんでしたが、
僕が独立して店を出した際には、祝福の手紙を頂きました。

さて、思い出話はこれくらいにして岸和田城へ。
二ノ丸跡と本丸跡が公園として整備されており、
市民の憩いの場となっています。


二の丸広場」。
藩主住居及び、政務が行われた二ノ丸御殿がありました。
現在は観光交流センター市民道場心技館が建てられ、
イタリアンレストランもあります。


二の丸多聞」。
櫓のようですが公衆トイレ
「多聞」となっていますが、形状は多聞櫓ではありません。
まあただの公衆トイレにするよりは雰囲気が出ますね。


大手櫓門」。
岸和田城の本丸跡は、
天守だけでなく櫓や土塀なども再建されており、
復興ながら城の雰囲気が完全に再現されています。
特に土塀はしっかり本丸跡を一周しているのが良い。


岸和田城址碑」。
大手門をくぐると正面に現れる碑。
岸和田城は市民や旧藩主岡部家の寄付で再建され、
現在の姿となっていますが、
当時のデザインには忠実ではないらしい。
とはいえ、そんな事はどうでも良いと思える壮観な雰囲気。
天守以外にも二層櫓が4基と単層の櫓が2基と充実しており、
これ以上、何も必要ない位の本丸跡です。


岡部氏記念碑」。
13代にわたり岸和田藩を治めた岡部家の碑。
完全な逆光でしたので色々と角度を変えて撮影しました。
朝や夕方の史跡訪問あるあるです。


本丸跡」。
本丸内は砂庭式枯山水庭園となっており、
諸葛孔明八陣法がモチーフとなっているらしい。
国指定名勝の登録されています。


本丸隅櫓」。
天守だけされてたって、
周辺の櫓がなけりゃ雰囲気は出ません。
こういう櫓までしっかり配置してこそ、
城が生きてきますね。


天守」。
復興された現在の天守は、連結式望楼型三層天守で、
当時のものとは違います。
実際は五槽の巨大な天守だったようで、
現在の天守より10mも高かったという。
でも想像すると、それだけ大きな天守は、
この狭い本丸には合わないような気がしますね。


裏側からの天守。
本丸からの撮影では逆光だったので、
裏側に周って撮影しました。

岸和田藩は、豊臣秀吉の母方の叔父小出秀政が、
岸和田城主に封ぜられたことに始まりますが、
関ヶ原の戦いで秀政と嫡男の小出吉政は西軍に属し、
敗将となってしまいます。
ですが、次男の小出秀家が東軍で活躍し、
さらに西軍の長宗我部盛親を石津浦で撃退した為、
その功が重く評価されて所領が安堵されました。
その後、3代藩主小出吉英出石藩に転封となり、
代わって丹波篠山藩より松平康重が入封。
2代続いた後、山崎藩に転封しました。
その後、高槻藩より岡部宣勝が入封し、
以後は幕末まで岡部家が岸和田藩を治めています。

岸和田といえば「だんじり祭」です。
この「だんじり祭」は城下の豪商茶屋新右衛門が、
城内の牛頭天王社に献灯提灯を掲げたいと願い出て、
許可されたのが始まりであるとも、
3代藩主岡部長泰が、伏見稲荷大社を三ノ丸に勧請し、
五穀豊穣を祈願して行った稲荷祭が始まりであるとも、
疫病退散の祭として人々が始めたのが始まりともされます。
とにかく岡部家が統治していた時代に始まったようで、
地車」が猛スピードで曲がる「やりまわし」で知られ、
毎年50万人の観光客がやってくるという。
僕の聞いた話では、岸和田出身の人はこの祭の日は、
仕事を必ず休んじゃうらしい。
もちろん全員ではないのでしょうが・・。

幕末の岸和田藩は、海に面していた事もあり、
外国船への警戒を行っています。
また吉田松陰は嘉永6年、藩儒相馬九方に面会し、
滞在中に数度、海防策や詩文談などを語り合いました。

藩内では、藩主継嗣争い「岸和田騒動」が勃発し、
先代藩主岡部長発の子長職を推す降屋宗兵衛らと、
藩主岡部長寛の実子長美を推す岡部結城らが対立。
慶応4年に王政復古の大号令が行われ、
諸侯へ京都参内が打診されますが、
藩主の長寛が江戸在勤中であった為に、
岡部結城が無断で名代として参内しました。
これに降屋派は猛反発し、一触即発の事態となった為、
長寛は急遽帰国し、降屋派の意見を取り入れて、
岡部結城を罷免しています。
結城派もこれに対抗して相馬九方新政府に訴えますが、
降屋派も新政府に岡部結城の非を訴えた為、
新政府は考慮の末に相馬の訴えを退け、継嗣は長職に決定。
佐幕的な降屋派が勝利するという異例の事態となりますが、
采配したのが新政府であった為、
必然的に新政府への恭順というカタチになっています。

【岸和田藩】
藩庁:岸和田城
藩主家:岡部家
分類:5万石、譜代大名

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