本荘城は最上家家臣楯岡満茂が築城し、
満茂の居城となっていましたが、
最上家の改易により召し上げられています。
幕府は召し上げた本荘城のある由利郡を、
失脚した本多正純に与えようとしますが、
正純はこれを固辞しており、
将軍徳川秀忠の怒りを買ってしまい、
その末に正純は改易されました。
固辞された由利郡は六郷政乗に与えられ、
城の規模を縮小させて城下町が造られ、
廃藩まで六郷家の本拠となっています。
※ちなみに本荘は当時本城と書かれており、
改称したのは2代六郷政勝の頃という。
「大手門」。
本荘城は本荘公園として整備されています。
この門は忍城北谷門を模して造られたもの。
本来の大手門は枡形になっていたようです。
「外堀と土塁」。
大手門前の外堀は現存しており、
その内側には土塁が残っています。
「三ノ丸跡」。
御殿があった三ノ丸跡は広場となっており、
綺麗に手入れがされている様子。
この奥の丘陵が尾崎山で、
二ノ丸や本丸となっていたようです。
本丸への大手道。
舗装はされていますが当時と同じ場所。
三ノ丸より駆け上って行けるので、
それほど防御力は高くないように思えます。
二ノ丸には何もなさそうだったので、
行きませんでした。
※土塁が復元されていたようです。
「修身館」。
本丸跡北西側に建てられた体験学習施設。
本荘の歴史や本荘城の資料を展示。
隣接する本丸の館は天守イメージの建物で、
お茶会や会議場に使用する他、
通常時無料の休憩場となっていました。
和風モダンのセンスある建物で、
無料で使用できるってのがいいですね。
修身館は本荘藩藩校の名称。
修身館内の本荘城の模型。
東北らしい石垣の無い城。
中世からの城そのままのような城で、
とても堅牢とは言い難いようです。
「本荘藩戊辰勤王碑」。
俢身館裏手の具足櫓跡に建てられた石碑。
本荘藩が庄内藩と戦った事を称え、
大正9年に建てられたもの。
「本荘藩儒臣 皆川宗海翁之碑」。
本丸中央付近にある藩儒皆川宗海の碑。
幼くして秀才の誉れ高く藩校修身館に学び、
私塾雙巴塾を開き子弟の教育に当たります。
江戸に出て大田錦城の稽古学塾に入門し、
経学の他に諸学を学んで34歳で帰郷。
藩校修身館で後進の指導にあたりました。
明治8年、死去。
「猿倉人形芝居 木内勇吉一座顕彰碑」。
猿倉人形芝居は鳥海の池田与八が創始し、
本荘出身の木内勇吉一座が継承したもの。
全国を巡業して人気を博したらしく、
この碑はこの功績を顕彰した碑。
「土門惟敬之碑」。
本荘藩藩医土門惟敬の顕彰碑。
江戸で儒学や医学を学び、
帰郷して藩の侍医として仕え、
藩校の講師に任じられています。
忠厚、廉直、恭謙な人柄で、
春陽のようであったという。
明治25年、死去。
「本荘神社」。
初代六郷政乗が諏訪神を守護神とし、
諏訪神社を建立していますが、
後に6代六郷政林が初代政乗を祀り、
それを明治2年に諏訪神社に合祀して、
明治12年に本荘神社と改称。
この社殿は明治19年に再建されたもの。
「招魂社」。
明治9年の明治天皇巡幸の際、
戊辰の役の英霊を弔うようにと宣命され、
金弊を下賜された事に由利郡民が感激。
明治20年に顕彰碑を建立したのが始まり。
明治40年に本荘公園内に社殿を建築。
以後の戦役の戦死者を祀っています。
「本荘藩重臣
贈従四位服部平右衛門彰功碑」。
本荘神社社域にある服部平右衛門の碑。
寺社奉行、郡奉行、表御用人を歴任し、
奥羽越列藩同盟を俗論として排撃。
東北雄藩に拒絶されて所在が定まらず、
奥羽鎮撫総督府を迎え入れようとし、
腹心守屋杢右衛門を能代に派遣しています。
久保田藩が態度を定めぬ中での英断とされ、
明治3年に死去して後の大正3年に、
従四位を贈られた事を記念した碑。
「報国戦死之碑」。
本荘藩藩知事六郷政鑑の命により、
大泉寺の住職恵漢によって建てられた碑。
新政府軍将兵66名の名が刻まれています。
本荘藩は列藩同盟に参加していますが、
勤皇派の服部平右衛門らにより、
新政府支持へ藩論が傾き、
久保田藩、亀田藩と共に脱退しました。
庄内藩は矢島陣屋を陥落させ秋田に向かい、
本荘藩は久保田藩らと共に応戦して敗れ、
政鑑は本荘城を自焼させて久保田に撤退。
本荘城下は火に包まれて焼失しています。
上記の城の模型を見る限り、
本荘城では庄内藩を防げないでしょう。
撤退はやむなしというところですが、
城下を焼かれた民には同情するばかりです。
【本荘藩】
藩庁:本荘城
藩主家:六郷家
分類:2万石、外様大名
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東京にある本荘藩六郷家の累代墓。
・由利本荘市 永泉寺/本荘藩六郷家墓所
本荘藩六郷家の歴代墓所。
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庄内藩と戦った久保田藩の藩庁。
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庄内藩と戦った亀田藩の藩庁。