秋田県横手市 横手城跡

久保田藩は出羽半国に広大な領地を持ち、
また大きな落ち度もなく常陸一国から、
出羽半国に減転封となっていた手前、
幕府は藩庁の久保田城の他に、
一国一城令の例外として、
横手城大館城の維持を許可。
3つの城を持つ事になりました。

横手城は久保田藩の支城で、
家老の戸村十太夫家が代々城代を務め、
藩領南側の防備の拠点となっています。
横手城跡は横手公園として整備されており、
二ノ丸跡模擬天守が建てられました。

横手城天守」。
本来の横手城は天守の無い城でしたが、
郷土資料館展望台を兼ねた模擬天守が、
岡崎城をモデルとして建てられています。
東北地方の模擬天守の最初期のもので、
建てられてから半世紀以上の古いもの。


小野寺氏彰徳碑」。
横手城は出羽の豪族小野寺家が築城し、
後に小野寺家の居城となっています。
しかし慶長出羽合戦上杉勢に味方した為、
徳川家康によって改易処分となり、
最上家に与えられていました。
後にその最上家の改易を経て、
佐竹家の所領となります。


戊辰戦死碑」。
久保田藩は奥羽越列藩同盟を脱退し、
新政府側に付いていますが、
庄内藩を主力とする同盟軍は秋田に侵攻し、
横手城を攻撃して落城させています。
この碑は籠城戦で戦死した21名の慰霊碑。

他にも二ノ丸跡には、
表忠彰義碑」、
山下九助翁之碑」、
伊藤源之助先生頌徳碑」等、
3つの顕彰碑かありましたが、
幕末に関係ないので割愛。


武者溜跡」。
二ノ丸と本丸を繋ぐ武者溜の跡。
駐車場とレストハウスが建てられています。
横手の夜景を望める最適スポットとのこと。

武者溜を越えて本丸跡へ。

本丸跡」。
本丸はそれ程大きくはなく、
模擬天守を二ノ丸跡に建てたのは納得。
本丸御殿が建てられてとのことですが、
この広さからすると規模は小さい模様です。


秋田神社」。
久保田藩初代藩主佐竹義宣及び、
12代藩主佐竹義堯を祀る神社で、
明治12年に本丸跡に建てられました。
社殿は本丸表門の木材が再利用されており、
被弾した弾痕が残っています。


被弾の跡。
社殿のあちこちに弾痕が残されています。

本丸を出て武者溜から牛沼へ。

牛沼」。
横手城の内堀の跡で、
太鼓橋が架かる雰囲気良い池となっており、
ヘラブナ釣りも楽しめます。
数人の太公望が糸を垂らしていました。

横手公園を出て城跡の西へ。

本多上野介墓(右)」、
本多出羽守墓(左)」。
徳川家康に友とまで呼ばれた宿老本多正信
その嫡嗣本多正純も家康の側近となり、
家康の死後も宿老として威勢を放ちました。
しかしやがてその驕りから権勢を誇り、
将軍徳川秀忠から疎まれるようになります。
そんな中で強引に自らの加増を行った為、
さらに疎まれるようになって、
秀忠は伊丹康勝高木正次を使いとし、
11ヶ条の罪状嫌疑を突きつけますが、
これに正純は全てを明快に回答。
しかし伊丹が更に3ヶ条を突きつけると、
正純はこれに回答することが出来ず、
謀反の疑いで改易となります。
秀忠は領地を召し上げたうえで、
忠勤に免じて5万石を与えようとしますが、
謀反に身に覚えのない正純はこれを固辞。
更に秀忠の怒りを煽った為に、
久保田藩の預かり処分となり、
横手城下に捨て扶持を与えられて、
そこで死去しました。
嫡嗣の本多正勝も父と同じく横手で没し、
幕府への遠慮から墓碑は建てられず、
墓碑建立は明治43年になってからという。

幕末の横手城代戸村十太夫義效は、
藩主の名代等を務めていましたが、
白石会議奥羽越列藩同盟に調印した為、
越権行為であるとして永蟄居処分となり、
嫡嗣戸村大学義得が継いでいます。
※実際の調印は藩主の指示でした。
同盟軍は羽州街道を北上して横手城に迫り、
庄内藩一番大隊二番大隊を主力に布陣。
使者を使わして投降を呼びかけます。
これに戸村大学は返事をせずに籠城し、
同盟軍は攻撃を開始しました。
横手勢は僅か100名前後。
3000名を超える同盟軍の猛攻を受け、
奮戦の甲斐なく横手城は落城しますが、
戸村大学は包囲網を突破して脱出。
大学自身も2名を斬り倒したともされ、
横手勢は21名の討死と8名の負傷で、
北へ敗走しました。

庄内藩一番大隊隊長松平甚三郎は、
横手勢戦死者を集めて龍昌院に埋葬。
僧侶らに読経をあげさせています。

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