久保田藩の3代藩主佐竹義処は、
弟の佐竹義長に新田2万石を、
甥の佐竹義都に同じく新田1万石を与え、
幕府の許可を得て支藩を立藩させます。
※義長の新田藩は佐竹壱岐守家、
義都の新田藩は佐竹式部少輔家。
双方は領地を持たないいわゆる新田藩で、
久保田藩からの蔵米支給が行われ、
これを財政としました。
後に式部少輔家3代佐竹義堅は、
佐竹宗家の養子となり、
それに伴い1万石は久保田藩に返還され、
式部少輔家新田藩は廃藩。
壱岐守家新田藩が定府大名として続きます。
久保田藩11代佐竹義睦には継嗣が無く、
僅か19歳で死去してしまった為、
新田藩7代佐竹義核が末期養子で宗家を相続。
※後の久保田藩12代佐竹義堯。
弟の佐竹義諶が壱岐守家を継ぎました。
慶応4年3月に久保田藩より領地を与えられ、
久保田城の南東3里にある椿台に移り、
陣屋及び城下町の建設を開始しますが、
戊辰戦争が始まり久保田藩は新政府軍となり、
庄内藩に攻められて椿台は激戦地となります。
※椿台の大会戦。
戦後、戦闘で壊滅した椿台の陣屋建設を諦め、
改めて岩崎に陣屋を建設して藩庁としました。
「岩崎陣屋跡(いわさきこども園)」。
岩崎陣屋跡は現在こども園となっており、
園児らの楽しそうに騒ぐ声が聞こえています。
遺構は皆無のようですし、
不審者と間違えられても困るので、
写真を撮って早々に退散しました。
陣屋跡より北側へ行くと、
旧岩崎城を公園化した千年公園があります。
「千年公園」。
岩崎城は仙北の戦国大名小野寺家の支城で、
小野寺家支流の岩崎家が代々居城としますが、
最上義光の攻撃によって落城しています。
以降は最上家の支城となりましたが、
最上家の改易によって佐竹家の支城となり、
一国一城令によって廃城となりました。
「八幡神社」。
千年公園内にある八幡神社。
この拝殿は岩崎陣屋の御殿からの移築という。
確かに御殿玄関のような造りで、
佐竹家の[扇に月丸]の紋もあります。
境内には石碑が沢山建てられており、
大工の棟梁であったり、地元名士であったり、
庚申碑であったりと色々ですが、
唯一戊辰戦争の忠魂碑がありました。
「戊辰役 忠魂碑」。
岩崎付近での新政府軍の戦死者6名と、
岩崎藩戦死者6名を忠魂する碑。
右側には新政府軍戦死者
秋田藩 白坂小一郎、木村角右ェ門、
佐々木吉右ェ門、
小倉藩 宮田庄右ェ門、
佐賀藩 石井虎三郎
軍夫 半田又吉
左側には岩崎藩戦死者
高澤武助、西原友吉、安田良之進、
八田秀喜知、織田寅蔵、軍夫亀吉
戊辰戦争当時は岩崎藩ではありませんが、
この碑の建立は岩崎藩設立後であり、
壱岐守家家臣を岩崎藩士としています。
壱岐守家は椿台での立藩を目指し、
陣屋や城下町の建設を始めていましたが、
戊辰戦争で久保田藩は庄内藩と交戦し、
壱岐守家は133名の藩兵を派遣し、
宗家と行動を共にしています。
戦後、岩崎に藩庁を設置して岩崎藩となり、
廃藩置県によって消滅しました。
【久保田新田藩→椿台藩→岩崎藩】
藩庁:岩崎陣屋(江戸期は江戸藩邸のみ)
藩主家:佐竹壱岐守家
分類:2万、外様大名(久保田藩支藩、定府)
■関連記事■
・秋田県秋田市 久保田城跡①
宗家の久保田藩佐竹家の居城跡。
・秋田県秋田市 天徳寺/久保田藩佐竹家墓所
宗家の久保田藩佐竹家の菩提寺。