TⅤなどの後世のイメージなのですが、
来島又兵衛といえば長州の豪傑って感じ?
豪快でワイルドな容姿を想像します。
肖像もこんなです。
そういうイメージですので、
猪突猛進、猪武者なのかと思いきや、
文武両道のお方だったようです。
確かに体格は大きく大石神影流剣術、
大島流槍術、鏡心明智流剣術等で免許皆伝。
胆力も人より優れていたようで、
馬術も神業の域に達していたという。
全く関係はないのですが又兵衛といえば、
真っ先に思いつくのは後藤又兵衛基次。
この後藤又兵衛が超豪傑でしたので、
イメージが被っている人も多いでしょう。
来島は算術や経理も得意だったようで、
手際よくこなしていたようです。
そういう特技がありますので、
自分のお金もきっちりしていたという。
豪傑のイメージではないですね。
そこに目をつけたのが尊攘派の書生達。
中でも金集めに長けた悪党井上聞多は、
来島に金の無心をしています。
外国公使館の襲撃計画を立てていましたが、
飲み食いの借金を残したままでは、
事を成した後で恥となりますので、
藩の公金で立て替えてくれと頼みます。
遊んだ金を何で払わなければならんのかと、
当然のように又兵衛は怒り、
日ごろの放蕩の説教まで始めました。
悪党井上はそんなことではへこたれません。
一通の封書を差し出し、
その封筒の中を見た来島の顔色が変わる。
これは馴染みの太夫からの手紙。
※ちなみにニセモノ。
説教した自分が妓楼に行っているでは、
説得力もなくなってしまい、
渋々身銭から五十両を取り出し、
井上に貸し与えたという。
こんなコミカルな逸話もありますが、
尊攘思想を持つ立派な志士でもありました。
高杉晋作が奇兵隊を組織すると、
それに呼応して遊撃隊を結成。
攘夷戦では国司信濃の参謀として参戦し、
その後は禁裡守衛のため上京します。
八月十八日の政変で京を追われると、
失地回復の為に京への進発を主張。
そして池田屋事件を経て、
禁門の変に突入します。
風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、
禁裏まで攻め込んだ勇猛な戦いぶりは、
猛将のイメージにふさわしいものでした。
この猛将来島又兵衛を倒したのは、
後に警視総監となる川路利良とされます。
戊辰戦争で玉袋を銃弾で負傷しても、
金玉は縮んでなかったとか、
フランス遊学中に汽車の車両から、
大便を窓から放り投げたとか、
なんとも下品な逸話がある人です。
その彼が放った銃弾に胸を打ちぬかれ、
助からぬと悟って自刃。
又兵衛の自刃地「清水谷家の椋」が、
京都御所に現在も残っています。
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・山口県山陽小野田市 市岐島神社
山陽小野田市の来島又兵衛誕生地。
・光市 光峨嵋山護国神社
来島又兵衛の墓碑もあります。
・美祢市 来嶋又兵衛関連史跡
来島又兵衛の銅像や墓など。