七戸宿は奥州街道の104番目の宿場町。
元々七戸氏の居城七戸城の城下町でしたが、
当主である七戸家国が九戸政実の乱の際、
九戸政実側に組した事により処断され、
七戸城は南部宗家の支城となります。
後に一国一城令は廃城となりますが、
交通の要所で地域の中心であった為、
城跡に代官所が設置されて七戸通を支配。
※[通]は盛岡藩の行政区分。
地方経済の中心となった他、
奥州街道の宿場町としても賑わいました。
上北郡七戸町七戸周辺。緑の線が街道筋で、
青でぼかした辺りが宿場だった場所。
「七戸宿跡」。
七戸町の中心地となって古い家は殆ど無し。
商店街は西側の南北に通る筋で、
宿場時代の古い家屋も散見できますが、
それ以外は更新されているようです。
※肝心の西側の写真は撮り忘れ。
定府大名の盛岡新田藩の麹町南部家は、
宗家から蔵米を至急されていましたが、
後に城主格大名に昇進した為、
幕府が盛岡藩に陣屋地を与えるよう命じた為、
盛岡藩は三本木(十和田市)を陣屋地とし、
三本木陣屋を幕府に報告しました。
しかし実際には陣屋は建てられずに、
そのまま蔵米支給が続けられたとされ、
七戸藩主の御国入りは盛岡であったという。
その後に幕末の動乱を経て新政府が樹立し、
領地の無い新田藩が認められなくなった為、
一計を案じて七戸城を藩庁であるとし、
盛岡新田藩は七戸藩という事でなって、
当主南部信民が初めてお国入りしました。
七戸城訪問時に一度訪問していますが、
その際は城門しか撮影してなかったので、
再び青岩寺を訪問します。
「青岩寺」。
青岩寺は街道沿いにある浄土宗の寺院。
本堂は安政2年にさいけんされたもので、
山門は七戸城城門を移築したものです。
「招戦没諸士之魂碑」。
戊辰戦争50周年に旧会津藩士らが建立。
会津藩の戦没者を慰霊したものです。
「小野政之助墓」。
野辺地戦争で戦死した弘前藩士の墓。
弘前藩十六番砲兵隊に所属しており、
明治元年9月22日に戦死したという。
享年22歳。
■奥州街道の宿場町
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