勅使を迎える奇兵隊士達

攘夷を決行した長州藩に対し、
朝廷は激励の為に勅使正親町公董を派遣。
文久3年7月16日に勅使は下関に到着し、
白石正一郎邸に入ります。
宿陣の幹部らは白石邸に参謁し、
朝廷の激励の言葉を賜りました。

翌日勅使一行は各砲台を視察。
迎砲の発射、西洋銃陣や射的、
槍や剣の試合の披露も行います。
勅使正親町公董はこれに満足し、
その日の宿所長府へ向かいました。

朝廷からの勅使を迎える為、
無骨な甲冑は付けないよう指示があり、
隊員らは皆小袖袴を着用し、
貴人に対する礼に尽くしたようです。
金子文輔馬関攘夷従軍筆記によれは、
若い隊士らの2~3人は、
小袖の背に盡忠報国赤心報国
身留一剣答君恩等と書いていたという。
そんな連中の中で最も目立ったのが、
後の奇兵隊2代総督河上彌一(弥市)と、
松門四天王入江杉蔵(九一)。
河上は排花色(?)の戦袍(羽織)を着し、
頭髪を稚子髷に結い白帯を指物とす。
また入江杉蔵は白羽二重の胴着にて、
背に[山行婆草燕屍海行水漬屍]を自書す。


こんな感じか?
※排花色がよくわかりませんので、
 とりあえず赤っぽい色にしました。

 正確ではないと思います。
勅使を迎える格好ではない気もしますが、
彼らも血気盛んな若者達。
※入江は当時26歳ですが・・。
目立ってなんぼの部分もあるでしょう。
入江については背中の自書だけですが、
目立ったということですから、
河上と同様に髪型をいじっていたかも?
てか稚児髷って・・かっこいいのか?

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