河豚食わざるの記を読んでみる

有名な吉田松陰の「河豚食わざるの記」。
※原文は不食河豚説
これを読んでみたいと思います。

世言河豚有毒矣、
世にいう河豚には毒があると。
其嗜之者特衆、
それでもこれを好む者は多い。
余獨不食、非懼死也、懼名也、
余は死を恐れず名を恐れるので食べない。
夫死者、人之所必有、
死は必ず人のところにやって来るが、
固不足懼也、
これを皆恐れない。
然死生亦大矣、
然るに生と死は重要である。
苟以飲食(一魚)之小、
いやしくも食事は小さき事で、
而到死生之大、
生死に関しては大きい事である。
顧不辱士名哉、
自分は不屈の士である事を願う。
或謂、河豚不必有毒、
河豚の毒は必ずあたる訳ではないが、
然死者、人之所必有、
しかるに死は人には必ず訪れる。
叉不可豫期、
それがいつかはわからない。
且世固有無病而死者、
この毒によって死んでいる人もいる。
况其萬有一毒、嗜而食之、
なのに毒を好んで食べて、
安保其不偶死而辱名乎哉、
不遇な死を遂げる事は恥辱だろう。
或謂、河豚之美、非衆魚比、
河豚の味がどれ程だろうとも、
不食不知其美、
食べねばその美味しさはわからない。
不淸人所悪阿片煙、
これは清国人でいうところの阿片である。
其味蓋非不美也、
その味を知ってしまえば、
其味愈美、
その味に更に魅了されてしまい、
則其毒愈深矣、
則ち毒への危険はさらに増す。
故今日之嗜河豚者、
故に今日河豚を食べた者は、
必他日貧阿片者也、
いずれ必ず阿片中毒者になる。

こんな感じですが、
間違っている箇所もあるかもしれません。
要約すれば、
みんな河豚には毒があると知っているのに、
これを好んで食べている。
でも自分は食べない。
死ぬのが怖いんじゃない。
毒も必ず当たる訳ではないらしいが、
美味しいからと食べて毒で死ぬのは、
とっても恥ずかしい事だと思う。
河豚は美味しいらしいけれど、
食べなきゃその美味しさはわからない。
これは清国人のアヘンと一緒。
食べないから河豚の味は知らないが、
知ってしまうと魅了されてしまい、
その分毒の危険度も増える。
故に今日河豚を食べた者は、
いつか阿片に溺れる事になるだろう。

といったかんじでしょうか?

実際に読んでみると違った印象です。
松陰は河豚を一度も食べた事はなく、
その上で周辺に食べた事がある者が、
多くいるという状況。
そして誰かから河豚を勧められて、
これを断ってその理由を述べています。
その理由ですが少し難解で、
死ぬのは怖くないが河豚毒で死ぬのは恥
松陰は一度も食べた事が無いから、
河豚の美味しさも知らない模様。
だけどそれが美味しいらしいことは、
周りの状況からか知っているし、
必ず毒に当たるという訳ではなく、
偶に当たる程度という事も知っていました。
これについて松陰は河豚の事を、
清国人と阿片の関係と同じとしており、
その危険性を説いています。

阿片はわかりにくいので、
これを覚醒剤に置き換えてみます。
我々はTV等で覚醒剤を使用すると、
気持ちよくなる事は知っていますが、
それと同時にその常習性も知っていますし、
逮捕されたり廃人になったりと、
その行く末も充分に理解しています。
この為に我々は覚醒剤を使用しない訳で、
松陰これを河豚食を同じと説きました。

河豚は種類により毒がある部位が異なり、
素人には見分けがつかない為、
偶に毒に当たって死んでしまう。
覚醒剤と同じで毒で死ぬかもしれないのに、
美味しいから食べる人間は、
いつか阿片にも手を出してしまう者だと。

少し偏屈過ぎるようではありますが、
意味はわからないでもない。
ですが例えればキノコ狩りに行く人は、
覚醒剤中毒になると言っているようなもの。
ちょっと語弊があるようですね。
※キノコ狩りの例えも語弊あるかも?

当時武士階級の河豚食は禁止されており、
本来松陰が言及する必要のない筈ですが、
この背景には武士階級の河豚食が、
公然のように行われていたと思われます。
下関の河豚は安全だったようですし、
幕末下関のフグ事情
それ程離れていないでも、
安全に食べられていた可能性もあり、
松陰の考えは古臭い考えだったかも?

先生~河豚食べましょう!
僕は食べません」。
最近は河豚に当たる人はいないですよ」。
それでも僕は食べません」。
いいですか諸君!・・・・」。
こんな会話が想像出来ますね。

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