田野浦は古くからの港町。
関門海峡の潮待ちの港として、
北前船の寄港が増加するようになると、
門司をも陵駕する繁栄を魅せたという。
門司区田野浦周辺。
埋め立てで海岸線は変わっており、
往時の集落は陸封されています。
「田野浦港」。
かつての浦は田野浦埠頭で覆われて、
河口のような船溜まりとなっています。
「田野浦の街並み」。
田野浦の集落は聖山の麓に沿っていました。
往時そのままの家屋はありませんが、
格子の家もちらほらあり土蔵もあります。
宝暦期(1751~1764)に入り、
小倉藩が遊女を置く事が許可すると、
永文字屋、蛭子屋等、
数軒の遊女屋が開かれたようで、
最盛期には40余人の遊女がいたという。
「番所の鼻跡」。
聖山の北麗には番所が置かれたようで、
山肌を削って遠見櫓が組まれ、
往来船や荷駄の出入りを監視しました。
設置されている説明板によると、
この近くにお上り場という船着場があり、
藩主が参勤や領内巡見で上陸し、
大勢の家来を伴って御茶屋に向ったらしい。
慶応2年6月17日未明。
長州藩は小倉藩に対して先制攻撃を仕掛け、
丙寅丸、癸亥丸、丙辰丸が田野浦を、
乙丑丸、庚申丸が門司を同時に砲撃。
古城山東麓の大久保海岸に奇兵隊が上陸し、
守備の小倉藩6番手小笠原織衛と戦います。
織衛の隊は応戦するも後退し、
田野浦東側からも奇兵隊が上陸すると、
これを守備する1番手島村志津馬と交戦。
大久保側からも攻撃を受けた島村の隊は、
挟み撃ちされて大里方面に後退しました。
奇兵隊及び同じく上陸した長府報国隊は、
田野浦の家々に火をかけて焼き払い、
これにより22軒が焼失。
また小倉藩は長州への上陸用に、
1000余艘の小舟を田野浦に配備しており、
長州勢はこれを全て焼き払った後、
一旦下関に撤退しています。
この戦闘の後に長州藩は、
家を失った門司及び田野浦の民衆に対し、
戦後に修復するとした一書を残しますが、
これが果たされたのかよくわかりません。
しかしながら戦後に田野浦を含む企救郡は、
長州藩の預地となっていますし、
その後も田野浦は衰退していませんので、
ある程度の復興は果たされたと思われます。
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