光市立野にある正義霊社は、
清水家2代当主清水景治が、
熊毛郡立野を所領に与えられた際、
父の清水宗治の墓所備中高松城より、
神霊を観請して祀った事が始まり。
後に12代清水親知が合祀され、
二神の祀られる神社となっています。
「正義霊社」。
祭神の親知は幕末期の家老(加判役)で、
正義派と呼ばれる改革派に属しており、
対立する俗論党の台頭によって、
賜死させられていますが、
社名の由来とは関係ありません。
天和元年(1681)の宗治百回忌の際、
4代当主清水就治が名付けたとのこと。
「社殿」。
現在の社殿は幕末期のものらしく、
写真右奥の小さな石祠が最初のもの。
清水家の名宰相難波覃庵が、
隣の神社(?)と入れ替えたとのこと。
「清水家墓所」。
参道途中より左側へ行くと、
清水家の神式の墓所があります。
「三蓉院殿方室貞〇大姉
大澄院殿〇良澤忠禪定門
寶明院殿圓應智覺大姉」。
10代当主清水元周と前室、後室の墓。
寄組草苅家(269石)当主草苅胤明の末子で、
9代清水親周の婿養子となり、
養父の死去に伴い家督を相続しました。
八組頭役、御手回頭役等に就任しており、
数度の帰国御礼使者も務めています。
前室は親周の娘於鶴で、
後室は志道熈良の娘於満寿とのこと。
「清水親春墓」。
11代及び13代当主清水親春の墓。
9代親周の実子でしたが、
幼少の為に家督は養子の元周が相続し、
親春は元周の養嫡子となりました。
養父元周の死去に伴い家督を相続し、
当役(江戸家老)を務めた他、
郷校慕義場を創立しています。
養子の親知に家督を譲りますが、
親知は俗論党政権により切腹させられ、
これに連座して謹慎。
内訌戦後に許されて再度当主となり、
第二奇兵隊総督に就任し、
大島戦争で指揮を執りました。
明治8年、死去。
「清水信周墓」。
親春長男清水為之進信周の墓。
家督を相続していたと思われますが、
明治13年に死去しており、
弟の清水民之助も明治19年に死去。
家督は一時親春三女清水スミが相続し、
その夫清水資治が継いでいます。
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・山口県萩市 東光寺/四大夫十一烈士墓所
12代清水親知の招魂墓があります。
・山口県光市 清鏡寺/清水宗治供養塔
初代当主清水宗治の供養塔。