鹿児島県日置市 永吉島津家墓所

天昌寺跡にある永吉島津家墓所
天昌寺は元中2年(1385)創建の曹洞宗寺院で、
始め妙通寺と称していましたが、
永吉島津家の菩提寺となった際に、
天昌寺と改められたようです。

御多分に漏れず廃寺であり、
永吉島津家の墓所のみが現存。

永吉島津家墓所」。
永吉島津家は島津家久を初代とし、
関ヶ原で討死した島津豊久を2代としますが、
3代島津忠栄は豊久の弟の娘婿で、
4代島津久雄は初代藩主島津忠恒の九男と、
血の繋がりは非常に薄いようです。
とはいえ鬼神の如きこの親子を、
初代、2代とする事は誉れだった事でしょう。


天岑昌運居士」。
2代当主島津豊久の墓。
初代家久の長男として生まれ、
沖田畷の戦いで初陣を飾っていますが、
元服前にもかかわらず敵を討ち取り、
首級を挙げたとされています。
父家久の死去に伴い家督を相続。
幼少時伯父島津義弘に養育されており、
戦の心得を学んだという。
関ヶ原の戦いで叔父の島津義久を逃がす為、
捨て奸の戦法で徳川勢を迎え撃ち、
井伊直政を落馬させる活躍をしていますが、
豊久自身も重傷を負って戦死しています。


島津忠栄公ご夫婦の墓」。
3代当主島津忠栄とその室の墓。
島津家庶流の喜入忠続の嫡男でしたが、
初代藩主忠恒の命で3代当主を相続します。
家久及び豊久の名誉ある死で途絶えた系譜を、
忠恒が復活させようとしたようで、
豊久の弟島津忠仍に継がせようとしますが、
忠仍は病気を理由にこれを辞退した為、
忠仍の娘婿に家督を継がせようと、
忠栄に白羽の矢が当たったようです。
しかし忠栄は継嗣なきまま28歳で病死。
忠英の室も程なく病死したとのこと。

4代当主島津久雄の墓は、
鹿児島市の興国寺跡に改葬されています。
理由はよくわかりませんが、
初代藩主忠恒の子であった事からかも?


興雲院殿久輝公墓」。
5代当主島津久輝の墓。
4代久雄の長男。


武功院殿久貫公墓」。
6代当主島津久貫の墓。
4代久雄三男島津久矩の長男とのこと。


寿昌院殿久柄公墓」。
7代当主島津久柄の墓。


瑞龍院殿久芳公墓」。
8代当主島津久芳の墓。


陽義院殿久謙公墓」。
9代当主島津久謙の墓。


天徳院殿久輔公墓」。
10代当主島津久輔の墓。


徳運院殿久武公墓」。
11代当主島津久武の墓。


勇勝院殿久陽公墓」。
12代当主島津久陽の墓。

以上12代まで治績等詳しい事は不明。


高雲院殿久敬公墓」。
13代当主島津久敬の墓。
今和泉島津家10代島津忠剛の次男で、
徳川家定御台所天璋院(篤姫)は同母妹。
12代久陽の養嫡子となりましたが、
程なく養母と密通していた事が発覚した為、
終身幽閉の処分を受けました。
彼の墓は少し離れて建てられています。
現地の配置図では13代と紹介され、
代わりに養子となった島津久籌は、
各所で14代と紹介されていますので、
僅かな期間家督を相続していたようです。

14代久籌は分家島津久包(登)の長男。
彼が永吉領最後の領主だったようですが、
彼の墓はここにはありません。
維新後は島津又七を名乗ったようで、
口永良部島に移住しており85歳で死去。
立派な墓が建てられたようですが、
現在は失われてしまっているようです。

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