関ヶ原の戦いで島津義弘率いる島津勢は、
敵軍の中央を突破する事を決意し、
捨て奸の戦法を用いて戦戦を離脱しました。
しかし約300名程残っていた兵数は、
最終的に義弘以下80余まで減ったとされ、
総大将の義弘を逃がす為に、
将兵は死ぬまで戦ったとされます。
義弘の甥である島津豊久も殿軍を務め、
自らも踏み留まって奮戦。
瀕死の重傷を負いながらも義弘を追い、
勝地峠を越えて上石津に辿り着きました。
そこで庄屋三輪内輔入道一斎に匿われ、
手厚い看病をされたようですが、
その甲斐なく死亡若しくは自刃し、
薬師寺(現瑠璃光寺)で荼毘に付されて、
「カンリンヤブ」に埋葬されています。
「島津豊久墓所(カンリンヤブ)」。
上多良の道路脇に島津家の幟が建っており、
「丸に十字」の家紋が場所を示しています。
薮に入ってすぐの場所にありますが、
豊久の墓の他にも顕彰碑や記念碑、
稲荷社もあって賑やか(?)でした。
「島津豊久墓(島津塚)」。
島津豊久の墓。
隣の小さな墓は従者のものでしょうか?
豊久は島津四兄弟四男島津家久の長男で、
初陣は沖田畷の戦いであったとされ、
元服前ながら首級をひとつ挙げています。
家久死後に家督を継いて佐土原城主となり、
伯父の島津義弘が豊久を養育。
小田原征伐、朝鮮出兵、庄内の乱に出陣し、
それぞれの戦で多くの戦功を挙げており、
関ヶ原の戦いにも義弘に従って参戦しました。
戦闘が開始されて石田三成方より、
伝令が馬上から助勢を求めますが、
これを無礼であると追い返したとされます。
やがて乱戦となって敗色が濃くなると、
退路を断たれた義弘は切腹を覚悟。
これに豊久は義弘を諫めて撤兵を決心させ、
義弘を生きて鹿児島へ帰す為に、
殿軍を務めて「捨て奸」戦法で迎え撃ち、
井伊直政を負傷される等の激戦を繰り広げ、
見事義弘を逃がす事に成功しています。
豊久は瀕死の重傷を負いながら、
上石津まで後退したとも、
討死して家臣らが遺骸を運んだともされ、
その最後は諸説はあるようですが、
荼毘に付されたのは間違いないようです。
豊久には子が無く家は断絶しますが、
姪の婿喜入忠栄がこれを相続。
しかし忠栄も継嗣なく死去した為に、
宗家18代島津忠恒の九男島津久雄が継ぎ、
永吉島津家として続きました。
■関連記事■
・宮崎県宮崎市 島津家久及び島津豊久墓所
佐土原にある島津豊久の墓所。
・鹿児島県日置市 永吉島津家墓所
永吉島津家墓所にある島津豊久の墓。
・宮崎県宮崎市 佐土原城跡
島津豊久の居城だった城。
