萱野権兵衛は会津戦争の責任で自刃。
萱野自刃後に萱野家の家名は断絶し、
家族は祖先の使った郡姓を名乗ってます。
会津藩は斗南に転封となり斗南藩を立藩。
極寒の過酷な状況の中で藩を運営しました。
幕長戦争で長州藩と戦った小倉藩は、
小倉城を自焼することになり、
御茶屋を藩庁として香春藩を立藩。
後に豊津に藩庁を移して、
正式に豊津藩となりました。
両藩の藩祖が徳川家康の孫と曾孫であり、
両藩とも佐幕派であった事からか、
豊津藩は斗南藩に同情的であったという。
転封後の財政に困窮していた斗南藩は、
子弟教育まで行き届いていなかった事から、
豊津藩が斗南藩の子弟を預かる事となり、
藩校育徳館で教育させる事になりました。
そして斗南藩から遥か南の豊津藩に、
7名の少年がやって来ます。
その中に萱野の次男郡長正がいましたが、
留学した次の年に自刃してしまいました。
その郡長正の墓が甲塚墓地にあります。
「郡長正墓・秋月藩士墓」の案内板。
墓は比較的簡単に見つけられます。
この墓地には秋月藩士の墓もありました。
「斗南藩郡長正神位」。
萱野権兵衛の次男郡長正の墓。
彼の自刃には二つの説があります。
ひとつは国許の母への手紙に、
[豊津の食事は不味い]と書き、
それを豊津藩士子弟に見られて問題となり、
その事で腹を切ったというもの。
もうひとつは豊津藩士に、
[小倉城を捨てて逃げた]と侮辱し、
その藩士に豊津藩が斗南藩にしてきた恩と、
斗南藩が豊津藩にした迷惑を聞かされ、
前言を悔いて腹を切ったというもの。
母の手紙の方が通説とされていたのですが、
近年は侮辱の方が真相だとされています。
とはいえ母の手紙の方も、
多くの資料に書かれている話。
侮辱の方は彼を諭した豊津藩士の子孫が、
代々伝えられた話として発表したもので、
どちらの説か甲乙つけがたい状況とのこと。
どちらの理由でも潔く腹を切った事は、
武士道の鏡として称賛されたようです。
郡長正。
まだ幼さの残る15歳の少年でした。
秋月藩士の墓については次回。
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沢山の少年達が悲劇に見舞われています。