吉田松陰の長崎紀行①

①///

吉田松陰佐久間象山らの勧めにより、
長崎で停泊するロシア艦への密航を計画。
嘉永6年9月18日に江戸を出発し、
熊本を経て長崎へ向かいましたが、
既にロシア艦は出航した後だったようで、
仕方なくに帰っていました。
この長崎行は[長崎紀行]に記されてますので、
その行程を追ってみたいと思います。
但しこの長崎紀行は漢詩が非常に多く、
行程よりもそっちが難関。
端折る訳にも行きませんが、
漢詩の訳は例の如く僕がしてますので、
誤訳はご愛敬として下さい。

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嘉永癸丑9月18日 晴。
①江戸を発し西遊を開始する。
この旅は秘密の旅であり大きな計画がある。
師の佐久間象山始めとして、
義所(鳥山新三郎)、長取(永鳥三平)、
圭木(桂小五郎)らも賛成してくれている。
※義所は安房国大川村出身の儒者で、
 松陰は義所宅に寄宿していました。
 長取は尊攘派の熊本藩士で象山門下。

他に親交あるものには一言も話していない。
朝、桶町の寓居を発して象山先生の許へ行き、
別れを告げてから品川宿へ出る。
東京都品川区 品川宿跡
義所と長取が送ってくれた。
圭木を待っていたか来なかったので、
そのまま出かける事とした。
詩を象山先生、義所、長取、圭木に留めおく。
云はく。
 名利無心世上求 一生不顧被人尤
 獨悲駑駘報恩計 詭遇常爲君父憂
意:名利は世の中に求むるものではなく、
  一生を顧みない優れた人のもの。
  恩に報えない凡人は独り悲しむ、
  奇行で常に君父の憂鬱となる事を。

金水(神奈川宿)に宿す。
神奈川県横浜市 神奈川宿跡
この日詩を作る。云はく。
 心蔵乗桴思 笑向個人辭
 道過浦郎塚 感嘆立多時

意:心に乗桴(密航)の思いを隠し、
  笑って個人に向かって辞す。
  道沿いの浦島太郎の塚を過ぎ、
  感涙する事が多くある。

旧交ある土谷松如はこの試み関係していない。
※土屋は松陰と親交のある明倫館助教。
ただ一詩を留めておく。
云はく。
 經生説經經亦亡 何望於國有所成
 文士作文文雖実 到底不免覆敗醤
 挽回此弊世誰有 堂々之身未可輕
 朱絃緑竹半宵歡 勿誤英雄千歳名

意:経生は教を説くがその教えもまた亡ぶ、
  国においては何を成すの望むのだろう。
  文士が文美しい文を作るといえども、
  それで腐敗を免れるわけではない。
  このような世を挽回するのは誰か、
  その身を軽んずるべきではない、
  朱絃緑竹半宵の喜び、
  誤るなかれ英雄千歳の名。


嘉永6年9月19日 晴
金水を発し③平塚宿に宿す。
この日は天候精晶で空に片雲なく、
芙蓉(富士山)の全容を見る。
詩を作り云はく。
 吾會雨度過芙蓉 芙蓉何心潜三峯
 今日更向三峯行 芙蓉含雪呈全容
 料知芙蓉亦有心 欲向崑崙評雌雄

意:富士山を過ぎる頃に雨が降り出す。
  山は何の心をその三峯に潜めているのか。
  この日山麓に向って行くと、
  富士山が雪を纏って全容を呈す。
  富士山にも心があると知る。
  崑崙山に向い雌雄を評せんとしている。
  ※崑崙山は中華にあるとされる伝説の山。


嘉永6年9月20日 雨。
巳にして晴れる。平塚宿を発し、
函關(箱根関所)を越え⑤三島宿に宿す。
治心気斎山田先生を懐って一詩を作る。
※長州藩重臣山田宇右衛門のこと。
初めて国許を出る時に、
先生に四条の誠を贈られたが、
既にそのうちを二つに背いている。
今この詩を作るのもその強情故だろうか。
 先生四誠二不遵 自非先生誰不嗔
 不遵却有深遵處 雖叵安親或顯親
 官法森厳不毫假 此事勿説向縉紳

意:先生の四条の誠を二つ破った。
  先生以外に誰が怒ってくれよう。
  今は反抗心より尊ぶ気持ちが深い。
  親を軽んじていたとしても、
  親は自分を軽んじたりしない。
  官法は森厳不毫も汚さず、
  この事高貴な人に説くことなかれ。


嘉永6年9月21日 雨。
巳にして晴れる。
三島宿を発し⑥由井宿(由比宿)に宿す。

嘉永6年9月22日 晴。
由井宿を発して⑦藤枝宿に宿す。

嘉永6年9月23日 晴。
藤枝宿を発して⑧袋井宿に宿す。


長崎紀行の行程①。

※最初から漢詩ガンガン作っています。
 意訳は間違っているかもですが、
 ある程度意味が合っているならば、
 そこは大目に見て下さい。


つづく。
①///

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