品川宿は東海道の第一宿で、
江戸を出発して品川宿に宿泊するなんて、
そんな旅人は殆ど居ないでしょうから、
入ってくる方がメインだったと思われます。
ですが品川宿が賑わっていたのは、
江戸入り前の最後の宿泊地としてではなく、
単純に[岡場所]のひとつとして、
江戸の人々に利用されていたからでした。
宿場には飯盛女を置く事が許されていた為、
これを目当てにやって来る江戸っ子が多く、
本来の宿場は旅人の為にあるはずですが、
江戸の男達の遊び場となっていた様です。
[東海道分間絵図]より、
現在は埋め立てられていますが、
品川宿は本来は海岸線沿いにありました。
現在も商店街として今も賑わっています。
東京で賑わってないところの方が少ないか?
「問答河岸跡」。
3代将軍徳川家光が東海寺に入る際、
住職沢庵和尚が河岸で出迎えましたが、
家光は沢庵に、
「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に?」
と問い、沢庵は、
「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」
と答えたという。
そういうトンチ話が名前の由来です。
「土蔵相模跡」。
旅籠屋相模屋があった場所。
土蔵相模は相模屋の通称で、
なまこ塀の土蔵造だったことから、
そのように呼ばれていたという。
近くの御殿山に英国公使館が建設され、
その完成間近の文久2年12月12日夜、
高杉晋作ら長州藩士らは、
この土蔵相模より御殿山に忍び込み、
建設中の公使館に放火しています。
また意外と知られていないのは、
桜田門外の変の際に水戸藩士17名が、
ここで訣別の宴を催した事。
残念ながら当時の遺構などは皆無で、
現在は木製の立札が建てられているのみ。
もちろんそんなことは知っていましたが、
やっぱり一度は行ってみないと。
「品川宿」碑。
品海公園という長細い公園にあります。
品川宿は岡場所として賑わっていたので、
宿駅制廃止後も衰退しませんでしたが、
後に売春禁止法施行で遊郭は姿を消します。
他の遊郭跡は建物が残っていたりしますが、
立地的な条件から残っていませんね。
「品川宿本陣跡」。
品川宿の本陣鶴岡家の跡地。
本来の街道はもっと海側にあったのか、
長い通路のようになっていて、
その先が本陣鶴岡家だったようです。
「品川宿本陣跡」碑。
大変なにぎわいだった品川宿ですが、
本陣の経営状況は良くはなかったらしい。
小大名は経費削減の為に脇本陣に泊まるし、
大大名も休憩にしか使わなかったり、
そのまま通り過ぎたりしていました。
「聖蹟公園」
本陣跡は公園として整備されています。
聖蹟公園の名前から察せるとおり、
明治天皇の立ち寄った場所で、
東幸の際に品川宿本陣で休憩しました。
意外と多くの子供達が遊んでいます。
記念碑など建ち並んでいましたが、
[聖蹟公園由来の碑]、
[聖徳の碑]、[御聖蹟の碑]等、
興味を引くものが無かったので割愛。
「歌川広重 東海道五十三次之内 品川」。
宿場というより岡場所であった品川宿。
確かに地元の旅館やホテルって、
宿泊しないので住人には接点がなく、
地元にありながら旅行者の方が、
その旅館やホテルの事を知ってたりする。
でもその旅行者が泊まらないならば、
地元民に泊って貰わなければならない。
そう考えれば品川宿の在り方は、
必然的であったと考えられますね。
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